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「じぶんを生きる。」って簡単じゃないねー。

タイトルが陳腐だなー。って一年ほど逡巡。

眠れない時に繰り返し読んでいる小説の中に「外の世界や人々と何とか折り合いをつけながら生きていく」こんなささやかな普通こそが今は幸福よりも価値がある。というようなことを老人が50代の主人公に話しかけているシーンがあって、今のわたしにとって、人生後半の課題はこれだなーってぼんやり考えている。

せっぱつまって3月の後半、老体に鞭打って這うようにハローワークに赴き、面接を受け(1人しか応募者がいなかった)4月1日からはじめた臨時職員。契約更新の9月までどうにか辿り着けたら契約更新してもらい継続して働くことができたらなぁ。と6月の中旬までそれこそ「外の世界や人々と何とか折り合いをつけながら生きていく」ことを頑張ってみたけれど、精神的に力尽きてリタイアしてしまった。
わたしは子育てに悪戦苦闘しているお母さんの団結(を見せつける一個人)がとても苦手なのだ。この年まで独身で年齢的にももちろんだが機能的にももう子供を授かることができないので余計にコンプレックスなのだろう。

前の職場でも子供の学費を稼ぐためシングルマザーとして働くお母さん(裏番長)に不登校の高校生を転校させるため九州から関西へ引っ越してきた優秀な同期入社のお母さんと比較され、仕事もロクに出来ないのに生意気なので(自分自身で原因を作ってもいたがそこにあることないこと尾ひれを付けて上司に告げ口され)限られた仕事しかさせてもらえない状況に一年間就かされた。ストレスで仕事中に出血し婦人科を受診。子宮にポリープが出来てその日に除去したが、検査の結果、前からあった筋腫が増殖していたので入院し全摘手術を受けることに。入院後術後の安静の為休職して復帰したが優しい番長もその人の嫌がらせで上司から注意を受け辞めてしまい、裏番長が晴れて番長になった途端、今度は睨まれると怖いから女性全員から無視されるようになった。冬に手術して春に復帰し、かなり暑い夏に心身ともにフラフラになり安全第一を考え、このまま働いて(ちょっとした危険作業で事故があり、ヘルメット着用がその頃から義務付けられたり)わたし自身が安全作業ができなくて会社に迷惑をかけることにもなりかねないので、退職してしまった。今思えば在籍中に入院休職でき休職中に手当も頂けたし、いずれそうなるならあのタイミングで手術することになったのは不幸中の幸いとも言える。

そんなこんなで一人の人が放つ「圧」のようなものに同調する周囲の雰囲気に躊躇してしまうようになり、新しい職場でも上司と年若い先輩が、子育てや家庭問題で多忙で、遅刻や急なお休みが多く、出勤してきたら聞きたいことがあっても上司と先輩とが子供の悩み相談で真剣に話しているのに割って入って行けず、ブランクもあり元々苦手だった数字や計算、さまざまなパターンでお金や保障が絡む対応をしなければならず、てんてこ舞いのこんがらがりでフラフラになってしまった。
辞めたあとで知ったのだが、その上司はかなり優秀な方で作業効率を考え時短でさまざまな来訪者に対応するチェックシートを独自で発案したり、先輩も販売業務で培われた弾丸トークと計算の速さで身内が死亡したご家族にも対応していたので、わたしは誰にも相談できないまま仕事をはじめて1か月もたたないうちに(みなさん来客中でどうしようもなかった)娘が自死した親御さんの応対をすることになったり、親御さんが亡くなって意気消沈している方の対応に時間をかけすぎたり(ペンも握れない状況の方に書類を淡々と書いてもらうことは出来なかった。)そんなことが重なったあと、被害妄想かもしれないが外国人の手続きを先輩と組んで対応したときの先輩のミスをわたしのミスと上司に報告され「仕事できない人」というレッテルを張られ、またここでもその日対応した書類をすべて上司にチェックしてもらうという流れを先輩に提案され、そのあとに入った方のミスまでわたしが疑われ、もうお手上げ。と辞めてしまった。

でもそこでちょっとした裏技を知ることができ、今は国民年金の全額免除を認可してもらえることになった。そのこともあり、短い期間だがわたしにとってはヘヴィーな職場で働いたことも糧にできたと今はよかった探しに成功している。

#一年前


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