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「吠」


「わがこころの五百羅漢を求めて」(1983年作品)より

 酒が愉しみのひとつである私にとって、酒場でのいろいろな人との出合いは、大きな喜びです。

 酒を飲みだして、二十余年、人生の友を数多く持てたのは、酒あればこそと思うこのごろです。

 「酒なくて、何んの己が桜かな」と詠んだ粋人のょうに、酒は、さかなとあいまって味わうもので、その一方が欠けると、そのうま味は、半減するように思います。

 「酒場は、人生の劇場」とは誰かのことばですが、紅葉の季節が近づくと、想い出す一場面があります。十年前のある日曜日、友人夫婦と一緒に紅葉を見ながらいっぱい、と云う話しになって、昼頃、それぞれ酒や肴をぶら下げてある公園に……。

 園内はすでに、良い気嫌で車座になって、飲めや歌えの大騒ぎの人・人・人でいっぱい。その友人とは、二十年来の付きあいで、彼の飲みっぷりも十二分に知っていたつもりであった。

 が、その日は、春の様な陽気とまわりの雰囲気に飲まれたのか、飲み方を少々急ぎ過ぎたのか、暫くすると、口元が怪しくなりだした。その内、近くに座った人達と和気あいあいに飲んだり、歌ったりする内に、完全に、我々三人を忘れてしまった様子。さて帰えろうと云う時になって、突然、彼は、大声で吠えだし、走りだし、木に登り、また、吠えた。全くの変身、酔態に、残る三人は、しばし呆然。

 気を取り直して、敢然と止めに入いるも、強烈な力にはね跳ばされるばかり。普段の静かな彼からは、とても考えられない凄さであった。彼はどう猛な野獣と化した。その後、何んとか野獣を車に押し込めて、我々は、別れた。

 後で、その日の全てを奥さんから聞いた彼は、全く、打ちのめされ、ひどい憔悴ぶりであったらしい。その日から彼は、酒を飲まなくなった。以来、彼との話しの中で、紅葉は禁句である。

 折角のうま酒も、時により人生のにが酒にとって変わるとも限りません。ここで私の酒右の銘、このひとこと。

「酒飲んで、吠える酒客に人心なし」

 各々方、自戒下され。

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