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「礼」

「わがこころの五百羅漢を求めて」(1983年作品)より

 お礼は、人間関係の潤滑油のようなもので、「ことば」、「表情」、「もの」等々いろいろ重なり合って表わされています。特に、人間関係の複雑な現代社会では、よほど、こころして、考えなければ人との付き合いがぎくしゃくなりがちです。

 しかし、お礼の仕方も、ロッキードの五億円のピーナッツやどこかの国の首相のように、外国を訪問するたびに、あちこちの国々に、口約束だけの贈り物をして回るのも、何んだか、ものほしげで、いやなことです。それは、国でも個人でも、相手に対して、礼を失するような過大な贈り物では、お礼の気持を伝えることにはならないでしよう。

 毎年、全国中で繰り広げられる中元や年末の贈り物大運動会も、海外旅行の土産品集めも、江戸時代の参勤交代の御貢物のような義務的習慣のように行われています。所で、最近、そのような贈答物を売買する新しい商売が大いに流行っているとのことで、その訳もなるほどと思えるこの頃です。特に商売絡みの中元や歳暮では、贈る側が相手の想いに関係なく、一方的に押し付ける場合が大半で、贈られた側は、全く、迷惑なことです。

 物が有り余る現代では、考えられないほど、慎ましい野菜の煮物や、頂き物のお裾分けを近所の人達としていた母親を見ていた私には、母の行いに、そのこころを感じました。「過ぎたるは及ばざるがごとし」とあるように、お礼のこころづかいは、ささやかで、慎ましいほうが無難なようです。

 ところで、あちこち旅行して、嬉しいことのひとつは、その土地の人々の親切心にふれた時にあると思います。特に、ことばの不自由な外国での旅では、目的の場所に行けず、途方にくれることが良くありますが、土地の人に、身ぶり手ぶりで教えてもらった時の嬉しさは、神や仏の非ではありません。その時に、「ありがとう」とお礼のことばひとつのかけ方で、その人にこころが通じたり、相手に自分の気持ちが伝わらず、困惑する場合もあります。

 お礼のこころは、やはり、「もの」が先にあるのではなく、「ことば」や「こころづかい––––表情」で伝えることが必要なようです。物を贈ることでお礼ができたと思う人が多いのも残念なことです。

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