海外で感じた、わたしたちにとっての「震災」の感覚。
おはようございます。
昨日は、開発チームのみなさんとずっとやりとりしていて、開発を追い込んでいました。
(#甘いものは正義)
まだ昨日も余震があったりして、落ち着かない日々ですが、これを読んでくださっているみなさんがご無事であることを願っています。
わたしは、修士課程の時に、東日本大震災後に福島ではじまったアートプロジェクトのことを研究していて、福島にも何度も通わせていただいたり、現地でたくさんの方にお世話になっているので、Facebookのタイムライン上などでみなさんの無事を確認してすごくほっとしていました。
今日はちょっと、VRや音楽などエンタメそのものの内容とはずれますが、「震災」について、海外に行ったときに感じたことを思い出したので、書かせていただきます。
2年ほど前に、大学のプログラムで、ドイツのゲッティンゲン大学という大学に、2週間ほど短期留学させてもらいました。
「Globalization and Diversity」というテーマに関心のある学生が世界中から集まっていました。
授業を受けるというよりは、毎日それぞれが自分の研究を発表する時間がメインで、インプット以上に、アウトプットが大事にされてました。
そこで、私はさっき書いた福島のアートプロジェクトのことを発表して。
率直に書くと、全然伝わらなかったんです。
福島っていう地域や、アートのことというよりも、「震災」という災害が全然身近にない地域の人にとって、「復興」とか「被災」という出来事が、直感的に全然理解してもらえませんでした。
なんとなく地震大国の日本で生活していると、「地震があった」と聞くだけで、どんな被害があるとか、どんなきもちになるとか、復興というものがどれだけ大変かなどが、無意識のうちに連想されます。
だから、「壊れた建物が直る」だけじゃなくて、自分の住んでいる地域に愛着や誇りを取り戻す、とか、そういった内面的な部分のこともあるってなんとなく知ってるんです。
ただ、それを違う文化的背景を持つ人たちに伝えるのはすごく難しくて。
日本で発表した時は理解してもらえたところがぜんぜん通じなくて、論点も合わなくて、あらためて「震災」ってすごく私たちの身近にあるんだなと思いました。
と同時に、違う文化的背景の人に伝えるのは、本当に大変だと実感しました。
確かに、わたしも「ハリケーン」や「内戦」と言われても、事象として想像はつくけど、身体が震えたり、思わず涙が出るような感覚にはなれなくて。
でも、それは仕方のないことだし、それでいいって思ってます。
むしろ大切なのは、そうやって理解できないものを、理解できないからと遠ざけたり、価値を低く見たりせずに、理解できないまま受け止めることなのかな、と。
書いているうちに、少し話がそれてしまいましたが、「多文化共生」が名前に入った大学のコースにいて、そんなことを根っこで考えていたりします。
今週もがんばります😊
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