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自己認識という単語に辿り着いた理由

“自分”で生きることが難しい社会で

自分を大切にするべきだとか、自分が生きたいように生きるほうがそりゃいいのかもしれないという認識はみなさんにもあるのではないかなと思います。それはもちろん私自身にもあって、今までの苦しみを思い出したとき、真っ先に思い出すのは、”自分が自分として生きることが何故こんなにも辛いのか”という想いです。

自己を犠牲にする中で、こんなの自分ではないという想いと、こんな自分にならなければ生きられないという狭間で闘ってきました。そんな自分が”自分”という存在であったり、”自己”の捉え方であったり、”自己認識”という部分が大事だと気づいたきっかけを今日は綴りたいと思います。


繰り返し現れる”自分”というワード

10〜11月頃にかけてひたすら自己分析に励んでいました。この時、参考にしたのは、八木 仁平さんの 世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方 人生のモヤモヤから解放される自己理解メソッド という本です。

八木さんはyoutubeもされているのですが、youtubeと合わせて見るとより一層理解が深まっておすすめです。自己理解という名のワークを進めていく上で、必ず出てくる単語がありました。

それが、”自分”だったのです。

自分のことについてのワークなのだから当たり前だろと言われれば、それもそうなのですが、もっと言えば、”自分”への熱意が自分自身が想像するよりも凄かったということに気づいたのです。

自己理解メソッドを通して、自分の価値観、好きなこと、得意なことを掘り下げて考えていくのですが、その中で色んなギャップと出会いました。

例えば得意なことを深掘りしていく際に、友人に「まあやに対して尊敬しているところがあったら教えてほしい」と聞いてみました。そうすると、聞いた友人3人とも、答えの最初に”自分の”という言葉が付いていたのです。

・自分の考えを持っている
・自分で本質を捉えて発信している
・自分の言葉で表現している など…

これを聞いた時の私は、「気持ちを言語化できるところ」とか、そういうものかなと想像していたので、とても驚きました。そして同時に、そうだ、いつだって私は”自分”で考え、”自分”の言葉で表現してきたではないかと気付かされました。


“自分”の成立が重要であるということ

そこから、これまでの自分を振り返りました。どん底だと感じていたときはどんな自分だった?逆にあーこれが楽しいんだと喜びを感じているときはどんな自分だった?とひたすら自問自答して、書き起こしました。

そうするとやはり私は、自分自身を大事にしてきたし、自分が思い描く自分になれていないことにストレスを感じ、自分というものが成立してやっと、エネルギーを発揮できる人間だということに気づいたのです。

過去を思い返すと、何故この気持ちに気が付かなかったんだろうという気持ちにもなりました。あれほど、自分自身と闘ってきたではないかと、あれほど自分で表現する世界を楽しんでいたではないかと。誰に何を言われようとも、それでも、自分だけは自分を信じて生きてきたという証が脳内に走馬灯に駆け巡り始めました。

その瞬間、こうしたSNSでの自己表現も、”自分”という延長線上でもあるし、”自分”を知る、”自分”で生きる大切さを伝えたいという想いも根底にあったのだということを改めて知りました。


本の中身が変わり出す

この自分自身が大事にしている”自分”という存在について気がついてから、目に留まるものがガラッと変わり始めました。もしかすると、元々自分が購入した本、本棚に眠る本、どれしもが、”自分”について書かれていて、それらを無意識に感じ取っていたのかもしれないし、自己理解を深めてからそういう本を手に取るようになっただけかもしれませんが、いずれにせよ、本の内容と自分が知りたい内容が一致していくようになりました。

これ、凄く細かいことかもしれませんが、皆さんも経験あるのではないでしょうか?人生に役立ちそうと思って買ったけど、中身があまりピンと来なかったとか。自分が好きな分野だから買ったけど、途中で読むのを辞めてしまったとか。これって、本なんて無数にあるのだから、仕方がないことと思うこともあるかと思いますが、ですがやはり、自分の思考に似たもの、これが知りたかったというものって、既に書物になっていることが多いのです。

それを見つけ出すためにはやはり、ある程度自分は何に興味があるとか、何を知っていきたいのか、何のために知る必要があるのかという部分を持っておく必要があるんですよね。

そして今回、私が気づいた”自分”への興味、価値観などは、本の中で色んな人が語っていました。どんな本を手に取っても、知りたかったことがあるという状況が本当に不思議でした。ですが、無意識下で”自分”にまつわるものを追いかけていたことと、本当に知りたいと思った”自分”についてという、離れ離れになっていた要素が本の中で出会えたような気がして、なんだか魂が震えました。


馴染みの無い自己認識という単語

“自分”や”自己”と検索すると、自分らしさとか、自己分析、という言葉が出てきますが、なかなか自己認識という言葉は出てきません。私がどのようにしてこの言葉と出会ったかというと、英語で検索していたときに出てきたのです。

self love (自分を愛すること)とかとは違うけど、”自分”にまつわることだし一応検索してみるかという軽い気持ちで調べていたら、self-awareness (自己認識)という単語が目に入り、あ、なんか、絶対これそうだ、みたいな根拠の無い自信が湧いてきたのです。

英語では浸透している様子のself-awareness(自己認識)という単語。Instagramでは色んな方がそれぞれの自己認識の仕方であったり、自分って何?という問いに自分なりの回答を見せている姿もありました。

一方、日本語では検索してもあまり出てこないものの、心理学の用語としてはこういう面で使われるという記事の中には、自己開示や、他者からのフィードバックを経て自分を認識していくことが…と書かれていてそれを見た時に、再び魂が歓喜していることを感じることができました。

他者との関わりやコミュニケーションで普段自分が大事にしている自己開示、月1で友人とzoomで話しながら得るフィードバック、それらを包括する言葉がこの世にあったのだと、嬉しくなりました。


自分よりも他者の道徳

この自己認識というものに対して何故大事だと思うのか、そして現代において自己認識における課題を自分なりの考えを述べたいと思います。

まず私が大人になってから教育に対して抱いた疑問の一つに、「人権について学ばなかったな」というものがあります。

これはそれぞれ、道徳の中に人権も含まれていたとか、社会の授業で憲法について学ぶ際に人権について触れたという方もいらっしゃるかもしれませんが、個人的に、人権そのものについて学ぶことがなかった経験を述べさせて頂きますね。

まず、私自身が義務教育における道徳から学んだことは”他人に優しくしよう”というものでした。助け合いが大事だということを小学生なりに胸に刻んでいました。そして当時、人に優しくしただけ自分も優しくされるとか、意地悪なことをしてくる人は神様が見ているから自分が我慢しておけばいいと解釈するようにしていました。

ここまでされたら人権侵害だとかそういうことを学ばなかったが故に、どうしたらいいか分からず嫌な思いに蓋をしてきた人はきっと私だけではないと思います。実際、いじめ(人権侵害含む)は深刻な社会問題になっています。

人権という概念だけでなく、一人一人の人権が尊重されることってどういうこと?とか、人権侵害の境界線はどこなの?とか、誰一人として人権を無視されるべきではないとか、そういうものをもっと学ぶ機会がこれから増えて欲しと思っています。

そして、人権を手にしている私たち自身のことをもっと、時間をかけて考え、見つめていきたいと思うし、そういった教育に繋がる支援や、機会提供を自分の一つの目標として頑張っていきたいと思っています。


“自分”が分からない大人たち

冒頭で書いたように、私自身も”自分”について悩んできましたが、それは決して珍しいことではなかったのだと、社会に出てから気づきました。そして、今回書いた”自己認識”という気づきを経て、再確認したことがあります。

それは、私たちは皆、”自分”が分からないまま生きているんだなということです。

今月、あるイベントに参加した際に隣の方との会話でこんな言葉が飛び込んできました。

「毎回、自分が本当にしたいことって何だろうって思う」

この言葉を聞いた時に、この感覚ってきっとみんな心のどこかにしまいながら日々を過ごしているのかもしれない、そう思いました。昔の自分なら、「自分のやりたいことなんてそのまんまで、自分がやりたいことをやればいい」みたいな無神経な考えを心の中で展開していたかもしれませんが、この時の私は、共感で胸が苦しくなりました。

道徳の授業同様、私たちはルールを守りながら、何かしらの正解があると思いながら生きてきたと思います。でも、急に応用問題に適応できなくなる時があります。それは、自分自身に問いかける時なのだと思います。自分が何が好きで、どんな自分になりたいとか、どんなことをしたいとか、そこには最初から正解などなく、突如として、考えなければいけなくなるのです。

世の中は、こういった私たちのことも、実はよく見ているのだと思います。だから、色々なメソッドが流通しているし、こうすればこうなれるよという断定によって安心感を感じられるでしょ?といった具合に、全方向からアプローチされるのです。


最後に

こうして”自分”と向き合う中で、この文章を読んでくださっているみなさんに出会えたこと、とても嬉しく思います。みんな”自分”をちゃんとわかっているように見えて、”自分”について知らないのはこの地球上で私だけなのかもしれないといった孤独感を感じたこともありました。そして、そんな感覚は皆さんも手にしたことがあるかと思います。何故、あの人のようになれないのだろう、何故自分はこうなのだろう。自分という存在を認めたり肯定する過程をすっ飛ばして、比較をしたり、卑下したり。

私たちは、私たち自身で生きる権利があるし、それは何者にも侵害されて良い理由はないのです。そして、今、”自分”という者について迷っていても、自分を語ったり、表現したり、新しいことに挑戦していいのだと、これからも伝えていきたいです。

最後まで読んで頂きありがとうございました。


p.s 「自分が分からない」という話題になった時、ベラベラ喋りたい欲求をグッと堪えているので、その瞬間の顔はかなり危険な顔になっていると思われます。

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