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その「ありがとう」を瓶に詰めさせて

何となく、何となくですが、小さな光が差し込んでているようなエネルギーを感じた話をしてみます。


昨日の夜は0時半頃からTikTok LIVEをしていました、3時間。終わったのは3時半で、久しぶりに多くを語らせて貰って、深い眠りにつきました。

昨日のLIVEはなんだかこう、懐かしい気持ちになれました。初めてLIVEに来てくれた時に高校二年生だったある男の子がいるのですが、「もう高校も卒業で、受験に合格して大学に行くんだ」と報告してくれました。初めてLIVEでコメントしてくれた時のつらい内容を覚えているからこそ、胸がぎゅっとなりました。

そうだ、三月は卒業のシーズンだったなと思い出しながら、時の流れやら、律儀に教えてくれる温かさやら、色んなものを感じジーンとしていました。

実は、その子だけではなく、「一番つらい時にまあやさんに話を聞いてもらうことができて助かりました、ありがとうございました」といったようなDMを頂いたりすることが最近増えていました。


同じようなコメントが昨日はとても多くて、あゝこの瞬間を何か瓶のようなものにでも詰め込んで、どこか旅へ出るときに一緒に道歩きたい、なんて思っていました。


発信者をしていると、ある種の人間の心理状態ブームのようなものを感じることがあります。ついこないだで言えば、1月末や2月はやはり、メンタルを病んでいる人が多かった印象です。私自身も1月は2週間ほど、うつ状態に入り、あ、やべえ、となっていました。

そして、3月に入り、目に見えないことではありますが、ズンと重い感じの雰囲気ではなくなったなあと感じています。

すっかり元気になったよという人は少ないかもしれませんが、少しずつ足取りを前へと持っていけるようになった人も多いのかなと。

みなさんの本心だったり、日常の何気ない想いを聞く機会はないのですが、たまにこうしてLIVEやDMで言葉を頂けて、そこからみなさんの世界を想像できることができてとても嬉しいです。

ありがとうございます。


LIVEはインスタと、TikTokのどちらかでいつもやっているのですが、もっと LIVEの歴史を遡ると、実は、違う媒体でもやっていたことがあります。

Twitterをやっていた頃、ツイキャスというLIVE配信をしていました。今のように何か伝えたいという想いではやっていなくて、単に知らないと人と話せる!みたいな気持ちでやっていました。

当時中国語を勉強していたので、「台湾」という枠で配信していました。多分それ以外外国の選択はなかったような気がします。

そして、そこで仲良くなった台湾人の方もいたし、台湾に行った時に空港まで迎えに来てくれた方もいました。今考えると、自分が危機感なさすぎてちょっとしばきたくなるのですが、でも結果的に良い人ばかりに出会えました。バイト終わりなどに毎日のように雑談をしていたのも、今となってはとても良い思い出になっています。

今、発信している自分からすると、もっと目標を持ったり、みんなと中国語を勉強するみたいな企画をしたり、そういう配信をすればよかったのに、と思いそうにもなるのですが、当時の自分は現実逃避するかのように、そして、画面上に浮かび上がる様々な言葉を抱きしめながら、一人じゃないと言い聞かせて生き延びたように思います。


そこから今に至るまで、SNSを離れることもありましたが、やはり自分はネットの人間だなあと、思うことがあります。リアルが嫌いなわけではありません、むしろ好きなんです。なんだかんだ、人と会うということ以上にエネルギーを感じられるものって無いのではとも思います。

ですが、誰かに何を言われたわけでもなく、Twitterを始めたことも、ツイキャスをやってみようと思い立ったことも、それは、きっと自分がネットでも”まあや”として生きたいと思ったからなんですよね。

今みたいに、匿名でアカウントを作る人ってそこまで多くなかった時代でした。でも、アイコンは自分の写真だし、新しい服を買ったら、着て、自撮りを載せたりもしたし、リプライのやりとりからLINEを交換して最終的には付き合ったみたいな人もいました。

そうやって生きたかったんだよね、と思います。


何だか昔話をしてしいましたが、何が言いたいかというと、自分がネットの人間であるが故に、やっとみなさんに会えたのだと思うと、涙がこぼれ落ちそうになります。

私は未熟な部分も山ほどありますので、一年を通して考えると、「なんでこれが伝わらないんだろう」と思ってしまうこともありました。でもそれって凄く傲慢な考えなんですよね。伝えたいことを伝えるという自由さの中で、反応が見え始めると、その大衆の中での”自分”というのが段々と輪郭を表していくかのような感覚に陥ったこともあります。そして、求めるのは、もっとわかってほしい、いや、もっとこういうふうにわかるべきで、私はこれだけやっていて、という自分本位な欲。

今は、ふとしたときに、今の自分全然見えてないな、人のための前に、人のお陰の部分全然感じてないな、と気づいたり立て直せるように徐々になってきました。特に一番自分と向き合ったのが去年の12月でした。

その時に、自分を満たしてから、見返りを求めずに人の相談に乗ったり、言葉をかけるということを意識していくようにと実践したのです。

それから三ヶ月、別にこれといったことは無く、ちゃんと自分の情緒を客観視できたり、バランス良くSNSと向き合えているなと、思っていました。

そして、昨日のTikTok LIVEを終え、「見返りを求めているわけではない」と思いながらも、何だか、自分の行動に対するみんなからの、「頑張っているね」を貰えた気がしました。

頑張ったかな?本当に頑張れていたかな?本当に自分の言葉で誰かが救われていたのかな..?という想いが、心の端っこで湧き上がりそうにもなるけれど、それでも、「ありがとう」という言葉をそのまま受け取ることができるのは、”まあや”としての活動を見てくれているみんなのお陰です。

ありがとう。



p.s 三月は別れの季節ではなく、ありがとうの季節なのかもしれない

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