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【映画評】 大阪〈生きた建築〉映画祭 ガメラと浪華と色情と通天閣と

(見出し画像:湯浅憲明『ガメラ対大魔獣ジャイガー』)

大阪〈生きた建築〉映画祭2015@シネ・ヌーヴォ

腰掛けようとした椅子が実はなく、腰をどこに落ち着けていいものか、そのような驚きとともに宙吊りの感覚というものがある。大阪〈生きた建築〉映画祭2015上映作品のラインナップを目にし、それと同じような感覚を覚えた。

その日のTwitter(現X)に、「虚をつくプログラム、感動とともに驚き」とつぶやき、私の目は左右に軽く振動した。プログラムから大阪の身体が立ち上がり、まさしく生きた建築としての大阪、その身体に触れ、そして内部を覗きたくなるような感覚に、いますぐに大阪を体現したくなったのだ。

怪獣、浪華、ピンク、新世界。どれもが大阪を表象するアイコンであり、作品のセレクトデザイン感覚に、私の腰は落ち着ける術もなく、重力のあるかなきかの様相となった。

映画祭が終了し、私は建築映画探偵団となり、ある種の喜びと、Peeping Tomのようないかがわしさを感じる自分に気づいた。すべての上映作品について書きたい気もするのだが、3作品についてのみ、観賞後の印象を述べてみたい。
湯浅憲明『ガメラ対大魔獣ジャイガー』(1970)
溝口健二『浪華悲歌(なにわエレジー)』(1936)
田中登『㊙︎色情めす市場』(1974)

湯浅憲明『ガメラ対大魔獣ジャイガー』(1970)

怪獣映画を超えた怪獣映画。70年代の大阪大改造を牽引した大阪万博公園で現地ロケが敢行され、各国のパビリオンが丁寧に紹介されているのに度肝を抜かれる。ガメラ、ジャイガーだけじゃなく、あの“建築的怪獣/怪獣的建築”? 岡本太郎の「太陽の塔」も出てくる。「通天閣」や「大阪城」が再現された大阪のジオラマも迫力満点。

(映画祭HPより)

怪獣と都市、とりわけ怪獣と建造物は不可分の対立としてある。怪獣にとり近代は破壊するものとしてあり、怪獣とは反近代の象徴とも言える。だが、ガメラは違う。近代を破壊する大魔獣ジャイガーから近代を守る、近代の前哨としての存在がガメラである。近代を前衛と読み替えれば、大魔獣ジャイガーは前衛を破壊する保守としての存在。近代を防衛するガメラも、近代の保守としての存在。2つの位相を異にする保守の対決としての怪獣。この対立構造が面白いし、近代建築もまた怪獣のような存在でもある。

溝口健二監督『浪華悲歌(なにわエレジー)』(1936)

(溝口健二『浪華悲歌(なにわエレジー)』製作時のポスター)

東京のモダン。大阪のモダン。その違いは何かと問われても、建築の門外漢である私には分からない。しかし、バブル景気以前ならば、写真を見ただけで、これは東京である、これは大阪であると、私にも識別できた。建築物の意匠がどことなく官的、商的(浪華的?)と、それぞれ特有の雰囲気を漂わせていたのだ。つまり、昭和初期から1960年代までに建造された近代建築物には、その土地固有の表情があり、建築家の思考も土地に根ざしていた。ところが、田中角栄の日本列島改造計画に始まり、中曽根康弘のバブル景気を頂点として、何かの疫病に感染したかのように日本は表情をなくし始めた。東京はニューヨークを模倣し、地方は東京を模倣しようとした。土地も建築家も一点しか見つめなくなった。より明確に述べるならば、東京のビルの谷間の思考でしかない、ビルの向こう側を見なくなったのだ。フォーカスが同一点に収斂し、被写界深度も浅くなり始めたのだ。
『大阪〈生きた〉建築映画祭』での溝口健二『浪華悲歌(なにわエレジー)』上映は、映画祭プランナーの、そのことの批評行為でもあると読んでみたい。

映画冒頭の「キャバレー赤玉」のネオンだけが輝く夜景、そして固定ショットで朝景へと推移する映像。ここには、この映画のすべてがある。夜景の美しさと、白々と明けた朝景の儚さ。短いショットだが、そこには推移する時間があるばかりではなく、夜と朝とのグラデーションが潜んでいる。そこには生活感を欠いた表面の美しさと、ここに住まう人々の生活の深度の表象がある。人々は夜空に浮かぶネオン、それもキャバレーという夢の光を見ることで自己を浄化し、やがては朝という日々の始まりがやってくるのだということを知悉している。

『浪華悲歌(なにわエレジー)』のヒロイン、アヤ子(山田五十鈴)も例外ではない。だが、このネオンが印象的なのは、映画の終盤が冒頭と同じ「キャバレー赤玉」のネオンの夜景であり、反復されたネオンが家族からも絶縁されたアヤ子が見つめる淀川の川面に映るネオンであることだ。冒頭の大阪の近代都市の象徴ともいえる、夜空に浮かぶ揺るぎない冒頭のネオンと、夜の美しさに映えながらも実態のない、川面に揺れる終盤のネオン。こんなネオン、どおってことないのよ、と言いたげに、淀川の橋を渡り夜の街に消えていくアヤ子。これは電話交換手という近代を体現した女の行く末であり、ネオンによる世界の構築化、建築性を纏う世界でもある。

アヤ子が妾として囲われている近代建築物。アヤ子の部屋に通じる直線的な階段。フレームを左上部から右下部へと対角線に二分する階段のショット。その階段を男が上り下りする。階段が結界であるかのようなショットだ。妾という前近代と直線構造による建築の近代性のアンバランス。これも昭和初期への眼差しを深くし、溝口の美意識を内包しながらも、近代を暗喩的に批判する眼差しである。

建築は闇を作る装置である。建築物は外部の光(建築物があるから外部が出現するのだが)を遮断することで、必然的に闇を創出する。だが、アヤ子の実家の家屋。これは闇そのものとしてあるという背理。内部に電灯という人工的な光を配置することで外部を闇と化すという背理。それは、建築物が闇を作ることで“内部/外部”二重の闇を作り出す。闇そのものと化した家屋を捉えるカメラ、内部の闇と光の狭間に置かれたカメラ。とりわけ室内の、隣室に置かれたカメラは光を捉えるのか闇を捉えるのか、それともその狭間を捉えるのかすら明白でない。カメラはただ対象を捉えてはいない。溝口の、市井の家屋を建築物として構造化するこの手法に、語りを超えたものを感じる。

入れ子構造、人間関係の排他的構造。物語の構造にも、建築的な視線を投げかけようとする。これが《大阪〈生きた〉建築映画祭》の戦略でもある。私はその罠に見事に嵌ってしまった一人。会社が傾いているときに資金を用立て会社を救った父。その後、会社から300円を横領した父。そのことで会社から告訴の憂き目にあう父。雇用主と株屋の妾となり、父の横領金返済と弟の学費を援助するアヤ子。だが、美人局として旦那を騙し警察沙汰となることで父からも弟妹からも絶縁されるアヤ子。父の横領から同種の構造の連鎖による家族崩壊。近代化による家族崩壊。大阪市電気局(現在の大阪市交通局)と大阪市産業部が大阪市の観光宣伝のために製作した『大大阪観光』(1937)とその前年に製作された溝口健二『浪華悲歌(なにわエレジー)』。両作品は讃歌と悲歌、大阪の“ポジ/ネガ”と言ってもいいだろう。

イタリア・ネオリアリズムの10年前に『浪華悲歌(なにわエレジー)』が製作されたのは驚嘆すべきであると、記憶にとどめておきたい。

田中登『㊙︎色情めす市場』(1974)

建築映画は必然的に都市の映画にもなりうる。というか、建築映画は都市の映画の部分集合だ。しかし、都市の映画を建築映画の視点で捉えると、これまで見えなかったものが見えてくる。それは都市の闇とかネガ・ポジの社会学ではなく、建築という構造が身体に直結するということだ。
日活ロマンポルノの傑作と評されている田中登『㊙︎色情めす市場』。
19歳のトメと男が交わるときの「通天閣」の多様な様相感。本作は「通天閣」ではじまり「通天閣」で終わるとも評されている。トメはドヤ街の近くで客をひく売春婦である。弟の実夫は生まれながらの知的障害者で、年中、家でゴロゴロしている。斎藤は会社の金を使い込み、恋人の文江は思いあまって斎藤のお金の工面のため連れ込み旅館「おそね」で働いている。登場人物は書き出すとキリがないからネットで調べていただければと思う。とりあえず彼女ら、彼らは距離感を「通天閣」を介して描かれる。
たとえば通天閣の下、トメ、文江、斎藤の三者が出会うシーンがある。そのときの斎藤に向けられたショット。そこに映し出されるのは、大阪という都市の闇から覗かれているような斎藤の表情である。この時のカメラはどこにあるのか。それは誰の視点なのか。きっと、文江の子宮の闇からトメの凝視する眼が撮った齋藤という、身体と建築(大阪の身体)とが交じり合う、交合された大阪の眼であると確認できるのである。それは、「通天閣」の祝宴・性宴であるのかもしれない。

(大阪〈生きた建築〉映画祭フライヤー、イメージは田中登『㊙︎色情めす市場』)

(日曜映画感想家:衣川正和 🌱kinugawa)

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