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《映画日記14》 ゴダール『勝手に逃げろ/人生』、ドゥパルドン『レイモン・ドゥパルドンのフランス日記』、ほか

(見出し画像:ゴダール『勝手に逃げろ/人生』)

本文は
《映画日記13》枝優花、小田香、エミール・クストリッツァ、金子修二作品
の続編です。

この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。
地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく「outdated遅評」であることをご了承ください。

わが家から遠いので敬遠していた映画館。電話で確認すると駐輪場があるとのことで、さっそく自転車を駆って出かける。わが家から自転車で35分。近いじゃないか。いつも行っている映画館より倍の時間がかかるが、日替わり・時間替わりのラインナップで魅力満載。内部は場末の映画館のような雰囲気なのだが、しばらく通ってみようと思う。

今回見たのは、
ジャン=リュック・ゴダール『勝手に逃げろ/人生』(原題)Sauve qui peut ( la vie )(1978)

『万事快調』(原題)Tout vas bien(1972)以来、政治的、実験的な作風へと傾斜したゴダールなのだが、『勝手に逃げろ/人生』をもって商業映画に復帰した記念碑的作品である。
クレジットに、ゴダールによりcomposéコンポゼ(構成された)となっていて興味深い。ゴダールが構成を呈示し、アンヌ・マリー・ミエヴィルとジャン=クロード・カリエールの共同脚本ということなのだが、composéコンポゼ の意味はこのことに止まらない。70年代のゴダールの特徴ともいえるコミュニケーション、労働、性、家族制度といった主題が、-1=勝手に逃げろ、0=人生という導入部に続き、1=創造界、2=不安、3=商売、4=音楽の四つの章で構成されている。そこには、音楽におけるセリー(音階、強弱、アタック)の映画への拡大といえるセリー(主題の断片、音、光、速度、切断、運動)の構成者としてのゴダールを見ることができる。タイトルそのものが二重のモンタージュであり、各章を横断して瑞々しく立ち現れる《逃走と停滞》は、公私にわたるパートナーであったミエヴィルと設立したsonimageソニマージュ = son(音)+image(映像)で確立した手法の集積ともいえる。次回作である『パッション』(原題)Passion(1982)に繋がる要素の断片が呈示され、その瑞々しい映像に驚嘆するしかない。その実現のために集められた人材には蒼々たるものがある。プロデューサーはゴダールの作品を数多く手がけたアラン・サルド、製作総指揮はマラン・カルミッツ、音楽はガブリエル・ヤレド、撮影にはこれ以上のキャメラマンはいないだろうと思われるレナート・ベルタとウイリアム・リプチャンスキー、そして編集はゴダールとミエヴィルである。キャストはジャック・デュトロン、70・80年代フランス映画の体現者であるイザベル・ユペール、トリュフォー作品の常連であるナタリ・バイである。

レイモン・ドゥパルドン&クロディーヌ・ヌーガレ『レイモン・ドゥパルドンのフランス日記』(原題)Journal de France(2012)

ドゥパルドンの新作だが、彼の過去と現在を追っていくのは、共同監督であり、録音技師であり、製作者でもある彼の妻クロディーヌ・ヌーガレ。フィルムサイズが8×10インチの大型ビューカメラでフランスの田舎を撮り続ける近年のドゥパルドンの仕事を追ったフィルムに、ヌーガレが発掘し再構成した、彼の埋もれていた未発表の映像を組み合わせた作品となっている。
ひとりの偉大な映像作家の眼前の世界が過去と現在とが交差する中で繋がり、それは、過去が現在を介して甦るという意味で、今なお色褪せることはない1942年生まれの写真家、ドキュメンタリー・フィルム監督である彼は、作風は異なるものの、アメリカのワイズマンと対比される作家でもある。

ドゥパルドンがキャメラを向ける対象は争乱のアフリカ、プラハの春、精神病院、法廷、フランス大統領選挙、農民の生活など。そこに映し出される世界には、報道というマクロな視点と、市井の生活者に向けるミクロな感性を兼ね備えた彼の姿が浮かび上がる。手持ちキャメラで対象へと突き進むドゥパルドン、固定キャメラで対象を待ち続けるドゥパルドン。それらに共通するのは、真実は目の前にあるということ。キャメラで聞き、キャメラで書く。目の前の真実を、目の前にあるものとして呈示すること。そこにはつけ足すものはなにもなく、映像とは資料(ドキュメント)であることを忘れない。

いまだに日本では明らかになっていないドゥパルドンの全貌。これまでに一般公開されたのは農民の生活を追った『モダンライフ』(原題)La vie moderne(2008)のみである。フランスでも農村は廃れゆく存在としてある。若ものたちは農村を去り、残された農民たちはみな老いてゆく。そんな農民の生活を過ぎ去った時間のノスタルジーとしてではなく、彼らの時間の堆積はモダンであるとドゥパルドンのキャメラは描く。

今回も1回限りの上映で見た人は数十人に過ぎない。未公開作品の上映を期待したい。彼を忘却することは、世界を忘却することに等しいことである。

(レイモン・ドゥパルドン)

コンテンポラリーダンス『HARAKIRI』@京都芸術センター
振付・演出/ディディエ・テロン
ダンス:足立七瀬、伊東佳那子、井田亜彩実、佐伯有香、杉山絵理、野村香子


フランス人振付け・演出によるHARAKIRI。様式、断片、閉じ込められる精神と露出する身体、速度と持続、ジャスト、リミックス、レイヤー。ダンサーはすべて女性である。

身体とは具象なのだろうか、それとも抽象なのだろうか。
たとえば、歩く、掴む、振り返る、転ぶ、走る、手を挙げる、顔を覆う…。
身体のそれぞれの動きにはそうすることの意味があり、その結果もたらすあらかじめ想定された事後がある。その意味では身体は具体性があり、具象と考えてもあながち間違いではないだろう。だが、それが劇場のような閉じられた空間に配置された《身体=ダンサー》の《動き=ダンス》だとするならば、具象と抽象の狭間で見る者の意識は揺さぶられることになる。それは、抽象化された《動き=ダンス》に意味を見出そうとする不安にも似た精神のもがきでもあり、とりわけ『HARAKIRI』のようにタイトルそのものがパワフルで具体的な事象を示すときは尚更である。

〝HARAKIRI〟とはいうまでもなく〝切腹〟のことである。
切腹は日本独特の男性の習俗=儀式であり、日本、男性という意味で特権的である。フランス人という切腹の外部者の振付け演出による、女性というやはり外部者によるダンス。それは切腹がまとう特権性を外部化するということである。外部化とは脱構築ということである。私のような日本人にとり、用語〝HARAKIRI〟は、切腹の持つ儀式性や精神性の組み替えのようにも思え、〝切腹〟を〝HARAKIRI〟と置き換えることで、言語のレベルでの脱構築を表出したと言えるのだろう。

ダンスのレベルではどうなのだろう。私が認識する切腹は本来、精神とスタイルの儀式である。その儀式はサクリファイスという意味で外部へとは向かわず、世界の内部化ということである。この世界の内部化を外部化へと転換する試みがHARAKIRIなのである。

6人のダンサーたちのスピード感を伴ったステップ。断片化され反復されるステップ。そこにあるのは精確さと持続。舞台全体を速度という疾走感が覆う。それも精確さを保持した疾走感。まるで電子加速器の内部の粒子のようでもある。

(〝HARAKIRI〟6人のダンサーたち)

切腹という内部へと向かう精神。振付け・演出のディディエ・テロンはエリュアールの言葉を引用し、「女性は男性の未来である」という。これは男性と女性の対立ではなく、内部へと向かう精神をダンスにより身体化…ダンスは身体の外部化である…することで、私たちの個別性とは何かを問うことでもある。HARAKIRIは、ジェンダーという視点においても、今日の閉じた社会を外部へと向かわせる世界の表象なのかもしれない。

《映画日記15》
滝口竜介の短・長編/ジャン=マリー・ストローブ/ファスビンダー/クルーゲ/ほか

に続く

(日曜映画感想家:衣川正和 🌱kinugawa)

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