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【映画評】 リチャード・リンクレイター監督『スラッカー』 スイッチングという戦略

人は絶えず何かにスイッチ「オン/オフ」し、それが意図的であろうとなかろうと、「オン/オフ」した対象により、その後の人生が決定される。人の運命とは、たかだかそんなものに違いない。リチャード・リンクレイターは運命論者であると言いたいのではない。彼が監督したインディペンデント映画の先駆的作品である『スラッカー』(1990)は、スイッチングの映画であると言いたいのだ。このことは、映画冒頭の若者を捉える一連のショットが雄弁に語っている。

若者はバスの中で目覚め、タクシーに乗りかえる。タクシー内では若者の饒舌な語りが始まる。タクシーに乗らないで、バス停でヒッチハイクしていれば美女と出会えたかもしれないと、バスで見た夢物語を運転手にぼやく。タクシーを降りると、目の前で、見知らぬ女が突然ひき逃げされる。ひき逃げした男の車は、現場近くの車庫に入る。するとひき逃げ男は、母親がひき逃げされたと警察から連絡を受ける。ひき逃げ男の自宅には警察の手が入り、男は逮捕される。

冒頭のほんの数分のシーンなのだが、目の前の状況はスイッチングにより目まぐるしく変異する。そこではスキゾ的といえるほどのスピート感をまとった時間の流れを見せる。これは会話(ここではカメラの連続変換も含めて)の力である。会話の饒舌性。この饒舌性こそが他者へのスイッチング機能としての世界戦略にちがいない。わたしたちは他者とあらかじめ接続されているわけではない。わたしたちは孤立ではなく、絶えず他者(=世界)との接続を求めている。それを連帯などと、ときには宣言したりもするのだが、連帯といった大きすぎる世界ではなく、ささやかな接続を求めるには会話に勝るものはない。リンクレイターに続くのちの世代、たとえばマングルコアと呼ばれる監督たちの流れるような会話の重要性に目を向けたのは、饒舌性による他者とのスイッチングに意味を見出したからに違いない。それがマングルコア作品に見られる即興性によるのか、リンクレイターの即興を排した手法によるのかは別として、会話によるスイッチングという世界戦略は、まるで複素関数の解析接続を見ているかのように、会話という局所性が大域性、つまり微分可能な滑らかな世界へと拡大される。会話は気心の知れない者とのコミュニケーションでなくてもいい。映画冒頭の若者のように、タクシーの運転手への一方的なぼやきであてもいいし、カフェでの見知らぬ者への懐疑に満ちた不意の宣告でもいい。たとえ手持ちのカセットレコーダーへの独白であっても、他者と視線を交わすか、他者からの視線を浴びるかすればそれでもいい。壁に向かっての独白ではなく、他者といった世界を想定した会話であればいい。これが会話によるスイチングという世界戦略であり、『スラッカー』の新しさなのである。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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