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【エッセイ】 倉橋由美子『聖少女』を読んで

目覚めると喉に少しの痛み。布団もまともにかけないで寝たせいなのか。わたしの常はそうであるからウイルス感染は気にする必要はないと思うのだが、痛みが消えるまで自宅で過ごすことにする。

午前中、Kさんに手紙を書き、そして昨夜から読みはじめた倉橋由美子『聖少女』(1965)を読み終える。夕方には喉の痛みも消え始めただろうか。

『聖少女』は倉橋由美子が30歳の作品。『暗い旅』(1961)をはじめ、少女の意識の流れをテクスチャーとした作品を発表してきた倉橋なのだが、彼女自身、『聖少女』を最後の少女小説と述べている。

『暗い旅』におけるミシェル・ビュトール『心変わり』(1957)やフランソワ・モーリヤック『テレーズ・デスケイル』(1927)の影響に対し、『聖少女』はジャン・ジュネと言えないだろうか。それもサルトルを経由したジュネ、存在的非存在(サルトル『l'être et le néant』 存在と無)を感じさせる。

近代的リアリズムとして展開してきた日本文学の中、倉橋のリアリズムは、虚と実とが複雑に交錯する「精神の自由な働き」、あるいはサルトルやジュネ体験を経由した存在的非存在という、近代とはいくぶん位相をずらしたところにある。

本作品は近親相姦を取り扱った小説である。倉橋にとり近親相姦は、「サルトルの主人公の10倍も強烈な嘔吐に襲われる」忌むべき行為というのだが、『聖少女』での近親相姦は「選ばれた愛に聖化」された性であり、生は「現実を喰いつくす癌」にほかならない。パパに「血を流している」と告白する少女は、性・生の譬えでもあり、「もつれたような糸の意識」でその手足を操る「人形」である……アラン・ロブ=グリエ監督『快楽の漸進的横滑り』(1974)を先取りしているではないか…
……。そんな意味で、聖リアリズム小説と名づけることもできるだろうし、それは近代リアリズムとも幻想小説とも異なる、聖化されたリアリズム、本来的無垢であることを忘れない。

倉橋の作り出す登場人物の多種多彩な交差は一種のミステリー、必ずしも虚実の明白でない秘密の告白により生じる交差=ミステリー(告白は読者を作品との共犯関係へと導く)を形成し、その様相はまるで、アルキメデスの円環構造の上昇運動を思わせるほどの眩暈を感じさせもする。だが、上昇する運動はやがて停止し、と同時に、読む者の意識も視点を失い宙づりになる。存在(l'être)から非存在(le néant)へ、なにごともおこらないことへと反転するのである。これは1960年代への倉橋の透徹した眼でもある。その眼差しが、聖化された物語でありながら、リアリズムからは軸をずらさない由縁ともなっている。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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