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【演劇評】 マームとジプシー『カタチノチガウ』。小学校の講堂というハレとケの場にて

2016年8月6日。京都市の高瀬川沿い木屋町にある元・立誠小学校の講堂を会場に、マームとジプシー『カタチノチガウ 』が行われた。以下はその公演のレビューです。

音楽集団タージ・マハル旅行団の中心メンバーだった小杉武久が、「ピクニックの場が(遠足といった)教育の場になるのなら、教育の場がピクニックの場になってもいい」といった主旨のことを述べたことがある(月刊誌『音楽芸術』)。

なるほど、思考の視点をずらすことで、いつもの日常を、これまでとは違った日常に変えることができる。今回のマームとジプシーの公演会場である元・立誠小学校の講堂。演劇の公演をピクニックと同一視するわけではないけれど、小学校の講堂という教育の場を劇場に変換することで、祝祭的要素を埋め込め、場の変位を創出することができるということだ。そこでは、日常と、それを超えたものが混在とも溶解とも判別がつかない超常的な存在とを同時に感じることができる。それは、わたしたちがハレとケ、と名づけるものである。
「カタチノチガウ」が公演された元・立誠小学校の講堂は、まさしく、ハレとケの場。元々講堂とは、学童たちの遊戯の場であったり、卒業式といった儀式の場であったりと、ハレとケが行き交う、あるいは病院の廊下のような、生と死が行き交うような、不気味で不可思議な場である。

マームとジプシーの公演を観るのは今回が初めてである。ようやく観ることができたという想いだ。この日をどれだけ待っていたことか。わたしをとりまくさまざまな付帯を外し、待望の公演を観ることができたのだ。

これまで公演には行けなかったけれど、この劇団の作者である藤田貴大の戯曲は雑誌で読んだことはあった。セリフの反復といったリフレーンの多い劇団という印象である。と同時に、藤田貴大の書く台詞には、身体のリフレーンも必要だと直感した。

マームとジプシー『カタチノチガウ』。公演は長女いづみによる「一度だけしか話さないから、よく聞いてほしいんだけど」で始まる。

「一度だけ」とは、反復といったリフレーンを拒絶し、直線的で不可逆な時間を呈示する台詞である。いきなりのこの台詞に、わたしは少したじろいだ。俳優の台詞と身体が「一度だけ」という、留まることなくなすがままに流れることへのたじろぎと驚きである。反復の多い藤田貴大の演劇を少しでも知る者なら、いづみによる冒頭の台詞に、誰もが不意をつかれたことだろう。だが、そのあとすぐにわかるのだが、「一度だけしか話さない」という台詞でさえ、幾度も反復される。そして、「一度だけしか話さない」お話は、反復することで、いくどもわたしたちを裏切ることになる。

舞台は丘の上の古い屋敷。登場するのは母の連れ子である長女いづみ(青柳いづみ)、父と今はいない女の間の子である次女さとこ(吉田聡子)、父と母の子である三女ゆりこ(川崎ゆり子)の三姉妹。三姉妹の、幼年期から現在までが「一度しか話さない」語りの反復により回想される。

いづみとさとこの喧嘩によってゆりこの人形が壊されたこと。いづみがお父さんと寝たという禁忌。いづみが友だちと遊ぶため、夜中に家を抜け出し、家出したこと。ゆりこが父親を殺し逮捕されたこと。大きな洪水があったこと。これが回想として話されたことの大意である。

回想とは記憶の吐露である。記憶とはあるがままの時間のことではない。そこには書き換えと置き換え、そして消去があり、その操作により、澱みをともなった時間の流れ……それを記憶といってもいい……が生まれる。

個人の記憶と社会的記憶(歴史)とを同一視はできないけれど、ベンヤミンを引用するならば、歴史は構成されるものであり、「構成の場を成すのは均質で空虚な時間ではなく、現在時によって満たされた時間である」(『歴史の概念』)。これを本公演の文脈に引きつけ、個人の記憶を「現在時によって満たされた時間」の堆積と考えるならば、個人の記憶を歴史と言い換えても差し支えはないだろう。たとえ個人の記憶が極めてパーソナルなものであるとしても、それが何らかの方法で外部へと放出されることで、社会化されるからでもある。

だが、ここで問題なのは、回想として話された事柄が、あたかも他者へと届いたかに見えたとしても、自己と他者との間に真の共有を見ることは難しいということである。その記憶が、たとえば戦争や3・11のような出自において既に社会化(=集団的記憶)されたものであるならば、個人から他者への開口路を十分には提示できない場合であっても、既に同一の時間を共有したということで暗黙の了解が成り立つ。しかし、姉妹間の諍いについての個人的な想い、お父さんと寝たという密室内の禁忌(近親相姦)、そして家出をしたという身勝手な事柄となると様相を異にする。「一度だけしか話さないから、よく聞いてほしいんだけど」と、いわば暴力的とも思える言辞により記憶の共有を促そうとしても、過ぎ去った時間の修復や救済は可能なのだろうか。「一度だけしか話さない」はずだった回想の反復は、その不可能性への苛立ちの表れなのではないだろうか。

反復されるのは回想ばかりではない。玩具ピアノで奏でられるパッフェルベルのカノン。幼年期の、一本指で弾かれたであろう単旋律。それは予期したかのように弦に引き継がれ、ポリフォニーによる循環構造を提示する。そこでは、ホモフォニー(=和声による調和)による進行をかならずしも要請しない。これは、リフレーンされる「一度だけしか話さないから、よく聞いてほしいんだけど」の、音楽的変奏でもある。

マームとジプシー『カタチノチガウ』-1

「カタチノチガウ」は、形、つまりは身体を扱った作品である。つまり、留まる身体ではなく、リフレーンする身体、カタチノチガウ身体。藤田貴大の戯曲を読み、彼の書く台詞には身体のリフレーンも必要だと感じるのは、台詞を反復することで、台詞が発せられる身体にもズレが生じると思ったからである。藤田貴大作品の反復される台詞は決して均質ではありえず、そのことで身体すらもカタチを違えてくるのである。

たとえば生殖。生殖とはカタチのリフレーンでもあるのだが、父の子として産まれた〈わたし〉は、父と同じカタチの手であることの忌避がいづみにより告げられる。ボルヘスではないけれど、「鏡と性交は、人間の数をふやすがゆえに忌わしい」(『伝記集』)。父と同じ手のカタチであることの忌まわしさ。そこには、カノンと同じく、ホモフォニーではなく、ポリフォニーとしての反復とズレが見られる。この忌まわしさを浄化するには、いつ終わるとも知れない、際限のないリフレーンを続けるしかないのだろう。

リフレーンされる台詞と身体。それゆえにもたらされる変奏。それが「カタチノチガウ」身体として表出される。それは、生殖による身体の複製であったり、家族という血であったり、父との近親相姦という血の汚れであったり、それらも反復することで浄化へと変相させようとする。だがこの変相は、「一度だけしか話さないから、よく聞いてほしいんだけど」で始まる時間の進行から、「こんなにも生き抜こうとしない」「生きることが果たして本来なのだろうか」という時間の停滞へと移行する変相である。

家を出たいづみが、子どもを連れて戻ってくる。子どもとは自己の忌まわしき反復=複製であるのだが、出て行った者が戻ることで、三姉妹は浄化されるのだろうか。浄化とは、わたしはやがて死ぬから、わたしの子を血の繋がらない妹に預けることなのか。わたしの子が未来を望まないなら殺すようにと妹に託すことなのか。その先にあるのは、身体の死でしかない。

ラストシーンで、舞台の背後にある扉が開かれる。古い屋敷で三姉妹を見つめていたわたしたち観客は、外部の光を浴びる。そのとき、講堂は劇の場ではなく、白昼夢のようなハレとケが交錯する世界へと変相される。出る者と入る者、死と誕生。出口は入口であり、入口は出口であり、劇場(=講堂)の扉は〝開く/閉じる〟の反復を要請する装置でもある。生と死の循環はとどまることなく、これからも続くのです。

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

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