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パフォーマンス・音楽・アートの扉_culture

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身体という物質性、知覚の直接性に興味があります。 目と耳、そして皮膚感覚。 それら刺激に満ちた世界。
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#映画感想文

《映画日記14》 ゴダール『勝手に逃げろ/人生』、ドゥパルドン『レイモン・ドゥパルドンのフランス日記』、ほか

(見出し画像:ゴダール『勝手に逃げろ/人生』) 本文は 《映画日記13》枝優花、小田香、エミール・クストリッツァ、金子修二作品 の続編です。 この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。 地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく「outdated遅評」であることをご了承ください。 わが家から遠いので

《映画日記11》 三隅研次作品、ブルンヒルデ・ポムゼン、ほか

(見出し画像:『ゲッペルスと私』) 本エッセイは 《映画日記10》アルゼンチンの監督マティアス・ピニェイロ(覚書) の続編です。 このエッセイは私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。 * 三隅研次『大菩薩峠』(1960) 大映男優祭が開催されている。市川雷蔵主演作品を見る。 「女は魔物」。机龍之介の台詞なのだが、魔物

【映画・音楽評】 リュック・フェラーリ……ほとんど何もない Presque rien

リュック・フェラーリLuc Ferrari(1929〜2005) フランスの作曲家、映像作家。特に電子音楽で知られる。 映像作家としてのフェラーリ作品が上映される機会は、日本ではほとんどない。研究機関や特別な上映会においてのみである。 リュック・フェラーリ『ほとんど何もない、あるいは生きる欲望』 Presque rien ou le désir de vivre ドイツ(1972・73) 第一部 コース・メジャン Le Causse Méjean 第二部 ラルザック高原

【映画評】 ペドロ・マイア監督〜アナログ・シネマ〜WASTE FILM(考)

ペドロ・マイア監督〜WASTE〜アナログ・シネマ〜覚書 1983年ポルトガルで生まれ、現在はベルリンに在住する監督ペドロ・マイア(Pedro Maia)。 アナログ・シネマを主なコンセプトとして作品を制作する前衛映像作家である。 アナログ・シネマとはデジタル・シネマの対概念でもあるのだが、いわゆる〈フィルム/デジタル〉という対立項に回収されるものではない。 〈フィルム←→デジタル〉変換ラボで働くペドロ・マイア。 彼がアナログの技術性・芸術性を自覚的にアプローチしたのは2

【映画評】 熊切和嘉監督『光の音色 THE BACK HORN Film』

紋別を舞台にした『私の男』、函館を舞台にした『海炭市叙景』。両作品で北海道出身者であればこそ可能な北の鮮烈な映像を呈示した熊切和嘉。彼と撮影監督・近藤龍一の生み出す映像には、明治以降の人間模様の堆積した時間、生とは自然との落差でしかないという厳しい地誌、それらが大気の中に溶け込んだ風土としての残酷なほどの美しさであった。そんな稀有な映像美を生み出した熊切和嘉監督が、撮影監督に橋本清明を迎え、オルタナティブロックバンド《THE BACK HORN》とタッグを組んだ映像作品が『光

【映画評】 中村佑子監督『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』

(見出し画像:中村佑子『あえかなる部屋  内藤礼と、光たち』) 1)終わりの始まり ドキュメンタリーを製作する監督の思考はどのようにあるのか、いつも不思議に思う。フィクションならば始まりと終わりがある。それがとりあえずのものであったとしても始まりがなければフィクションは成り立たないし、終わりも然りであるから、それらは明確にある。だが、すでに〈在った/在る〉ものを対象とするドキュメンタリーに始まりと終わりはあるのか。私という生は既に在りこれからも在るのだから、そこに始まりと終