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「繋がる」を模索する

ここ1週間ほどずっとモヤモヤしている。自分はわりと忘れっぽい性質だと思うのだけど、わだかまりが残るとやはり尾を引くものなのだな。指先に棘が刺さって、チクチクとした違和感がまとわりついているみたいな。そういや最近棘が刺さるってことあんまりないな。昔はちょくちょくあったよな。何かにつけて製品の質が高くなったんだろか。や、それか木製のものが減ったんだろか。まあそれはいいんだけど。

で。そうだ、noteに書けばいいじゃない、と思い至った。noteってモヤモヤ処理にうってつけよなあ、というスタンスだったのをちょっと忘れていた。書くとすっきりする。だから認知行動療法なんかにもコラム法ってのがあったりする。あと、記録しておくと、後で見直せることもメリットだと思う。月日を経て経験値が増えた状態で、うーわ、昔の私いろいろ間違ってんなーなんてことを改めて内省できるってのは、なにかと有意義な気がする。それをわざわざ公開する理由は何なんだと問われると、一抹の承認欲求を含むと言わざるをえないのだけど、でも赤裸々に語ること自体も広義の意味で福祉だと思う。よし。エクスキューズおわり。んじゃ、書く。あんまり赤裸々に書くのもアレなので、ふわっと書く。

オープンであることが利益を生むという福祉わっしょいな枠組みの中で、私は権利の話をしていた。公共性を掲げるなら、さまざまな立場のさまざまな人の権利が広く守られなければいけないと思う。そのためにも、できるかぎりオープンであり続けることに熱量を投入しなきゃいけないと思う。それが利益に繋がるならなおさらだ。きわめて普通のことを言ったと思う。なんなら定義の話でもあったと思う。のだけど、なぜだか理想論だと一蹴された。特大のハテナだ。それを的確に突っ込みきれなかった私にもがっかり。そんなことがあった。

や、それもそうなんだけど、この件で地域福祉とは何か、支援とは何かを改めていろいろ考えた。7年ほど前にパニック症が寛解した。その経験で誰かの役に立てないかと思い、5年ぐらいTwitterをやってきた。去年それを本にまとめる機会ももらえた。だけど、実際には役に立つどころかむしろ傷つけることがあるのを知った。しかもそれはたぶん少なくない。だから葛藤の5年でもあった。それで、最近なんとなく思うのだ。「役に立つ」ことを感謝されることだと考えちゃいけない。これはあなたのためだ、という押しつけを忌避しなきゃいけない。の前に、これは押しつけになっていないかというセンサーをめいっぱい働かせなきゃいけない。支援というのは「ただ繋がる」ことが土台にないといけないのだ、きっと。というか私にできることって、それなのかも。てかそれが福祉ってやつなのかも。

その矢先、福祉とか支援とかの枠組みの中で、正面切って「これはあなたのためだ」をやられたので、そう、やっぱりがっかりしたのだ。からの、理想論うんぬんで腹が立ったのだ。でもそれに対して怒りきれなかった自分に、やっぱりがっかりした。なかなかよねさん(とらつば)みたいにはいかないもんだ。あ、あと、誰にも賛同してもらえなかったのも残念だったな。

書いた。案の定けっこうすっきりした。考えてみれば、空気を読まずに意見を言えたこと自体はそこそこがんばったと言えるのじゃないか。それはそう。たしかにそう。それで溜飲を下げる。そしてまた、繋がることを模索していく。そんだけっちゃあそんだけのnote。(おわり)

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