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ニューメキシコの青(前編): 転がるようにロングフライト

ニューメキシコの空を求めて

私にとっての旅は、息抜きとかリラックスとか以上の、もっと切実な何かでした。溺れた時の藁、のような。いや、でも実際には藁以上の浮力はちゃんとあって、旅のおかげで何とか日常にぷかぷか浮かんでいられたところがあって。

なので日々はただ、旅の資金を貯めるためだけのものでした。「私には旅があるぞ、旅に出るぞ、そのために生きるぞ」というのが、1日を乗り切る呪文。思えばいびつな熱量でした。わりと笑えない現実逃避だったと思います。

そんな私が当時決まりごとにしていたのは、年に1回数ヶ月の旅をすること。だから最初にパニック発作を経験して、それから毎日謎の発作が起きるようになった時にも、もう既にその年の旅行の手配は済んでいました。と同時に、この発作を治すためには旅に行くしかないと、なせだか強く信じてもいました。

発作は日々のストレスからくるものに違いないとは思っていたものの、そのストレスがどこから来るのかを考える回路が無くて、ストレスは薬やら病院やらの適応じゃないというフワッとした認知があって。だからとりあえず旅に出ればすべて治って万事解決という結論が、私の中である種の必然性をもっていたのです。こじらせてますな。何もかも、今思えばね。

それで、とにかく旅に出ました。行き先はアメリカのニューメキシコ。その数年前、ニューメキシコ州のサンタフェ辺りを旅したことがありました。その時は画家ジョージア・オキーフが晩年移り住んだアビキューという土地を訪ねる目的だったのだけど、そこで見た突き抜けるような青空と、ネイティブアメリカンの風土がとりわけ印象的で、なんとなくまた行きたいなと思った次第で。

ジョージア・オキーフが過ごしたゴースト・ランチの空

この時はまだ、自分に降りかかる症状がパニック症なんだとは分かっていなくて、パニック発作がどういう理屈なのかも当然知るはずはなくて、むしろ旅こそが特効薬なのだという妙な自信のおかげなのか、なんとか発作らしいものもなく飛行機を乗り切ることができました。

その代わり、体感的には瞳孔開きっぱなし。いつもどおりコンタクトをメガネに変えて、新作映画を見て、機内食をペロリとたいらげ、ちゃんと歯磨きもして、持参のミステリー小説を読みふけり、眠くなったらネックピローにもたれて寝るはずだったのに、その時できたことと言えばコンタクトをメガネに変えることだけ。ロサンゼルスまで10時間超のロングフライトは一睡もできず、ほとんど何も口にできないままピリピリと過ごしました。

それでも「ニューメキシコの空にすべてのストレスが溶けるのだ」という信念は解けず。考えてみれば、この頑なさこそストレスの病理のような気がしなくもないのだけど、渦中にはなかなか気づけないものです。たぶんおおよそのことは、たいていそんなものだと思います。

モーテルを飛び出して駆け回りたい

さて。ニューメキシコへ辿り着くにはまだ段階がありまして。ロサンゼルスで国内便に乗り換え、ニューメキシコ州の玄関口アルバカーキまで2時間弱。アルバカーキに到着したらその足でレンタカーを借りて、近場のモーテルにチェックイン。旅程通りすんなりいっても、宿に着くのは夕方です。

ところが、この時に限って生まれて初めてのラゲッジディレイ。なぬ。荷物はまだロサンゼルスとな。じゃあ荷物が着くまで空港で待ってりゃいいの? え、いつ着くか分からない? いったん宿にチェックインしてまた戻って来りゃいいの?

拙い英語力フル開放で問い詰めてみたら、その疲れ切った顔に同情してくれたのか、もとよりそういうシステムなのか、ともあれ到着次第宿まで届けてくれるという話になりました。それで私は宿の住所を伝え、ほんとかよー信用できねーアメリカだしなーなどとぶつぶつ言いながら空港を後にしたのでした。

ラゲッジディレイで、手元にはリュックだけ

その日の晩。モーテルの部屋でいつ届くとも知れない荷物を待ちつつ、小説の続きを読むともなく読んでいたら、本当にふと「なぜ私はここにいるんだろう」という疑問が浮かびました。

こんな異国の地でもしも何かあったら、いったい誰が助けてくれるんだ。よく考えたら私は今めちゃくちゃ無防備で無策じゃないか。ここにいていいのか。いや、いけないのでは。

ふいに逃げ出したくなりました。全速力で駆けて、この場を離れなければいけない気がしました。だけど頭の片方では、そんなことする必要がないこともまた分かっていて。ただ、いてもたってもいられずに、金切り声を上げたい気持ちを必死で抑えるしかありませんでした。

振り返ってみると、これぞ典型的なパニック発作。そして、まさに文字通りの「闘争・逃走反応(パニック発作の原型はこの防衛反応だと言われています)」です。

旅行に出る前にも発作は何度も起こったし、そのたびにいてもたってもいられない切迫感を体験してはいたけれど、ここまでくっきりと「とにかく走って逃げ出さねば!」の気持ちが立ち上がったのは、この時が初めてでした。

帰国後パニック症について調べる中で「闘争・逃走反応」とやらの事象を知ったとき、その概念にひどく臨場感を覚えたのはこのモーテルでの発作のせい(というかおかげ)だと思います。私はこの時、実に原初的な逃走反応を体験したのじゃないかしら。これってわりかし貴重な体験なのじゃないかしら。そう思うと、ちょっとほくほくします。もちろんこれは、疾患が治った今だから感じられることなのだけれど。

発作が落ち着いてフロントを訪ねてみると、ちゃんと私のキャリーバッグが届いていました。その時の安堵ったら。フロントのお兄さんの「あー届いてるよーよかったねー!」という、イマジナリーアメリカ人そのもののフレンドリーさが、私の安堵を全方位からギュンと高めてくれました。笑顔っていいな。しみじみ。

いそいそと部屋に戻って、荷解きもそこそこに、さてようやく眠れるぞ、いつもみたいに秒で爆睡コースだなこりゃ、とベッドに潜り込んだものの、しかしなかなか寝付くことができません。いつでもどこでも爆速で爆睡できるのが私の自慢(どんな自慢)だったのに。結局ほとんど眠れないまま朝を迎えてしまいました。私にとって、そんなこともまた初めての経験でした。(つづく)

借りた車はテキサスナンバー、ひゅう

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