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ケア的精神の圧倒的欠如

あー、ついXチラ見しちゃーう。もうこれはアプリごと削除するしかねー。という程度にはアディクションめいている。

つい先日、とある作家のポストが燃えたのを見た。たしかに可燃性だなーとは思ったが、でも件の人って「そういう感じ」のイメージはそもそもある。私自身、氏の著書を読んだことはないが、絵画作品などは好きだ。活動もおもしろいなと思う。「正しいかどうか」という秤にかけるとどう傾くかは知らないけれど、ケアの一つの可能性のように感じる。実験的で、かつ、どちらかと言えば希望めいた何かがある気がする。氏のライフスタイルひっくるめて、私には到底マネできないけれど、共感できるものが少なからずある。いや、なんか上からですみません。かっこ個人の感想です。

どんなポストだったかは、いろいろ鑑みてここではなぞらない。なぞりたいけどなぞらない。ただ、誤解を招きそうなポストではあった。だとしてもすぐに誤解が解けるであろう情報も紐付いていた。氏がどういう人なのか、どういう文脈での発言だったのかは、たとえ氏を知らなかったとしても過去ポスやプロフから探れる。

Xは意図せず切り取られるものだから発言は慎重を期すべきだというのは、すごく分かる。そうだと思う。だけど、この件で氏の発言はぜんぜん”切り取られて”いない。いくらでも他の情報にたどり着ける。にもかかわらず、一部では何故か”切り取られた体”で「誤解を招く」ことにされていた。「わざわざ他のポストまで見に行かない」から誤解は当然だというリプもあって、間接的に驚いた。見に行かないのか? いや、例えばスクショとかで引用されてたらわざわざ見にいくの面倒だけど、普通の引用リプライだったら普通に見に行けるし、見に行った方がいいと思うんだ。いや、私はね。だって、文字制限された1つのポストだけじゃ判断材料として弱すぎるし、短いポストを思うままに投げるというXのフォーマットからしても、投げられたいくつかを繋ぎ合わせて見るのは、ある意味ルールのような礼儀のような気もしなくもない。いや、私はね。

さっきから触れてもいるけれど、氏のポストは単体で燃えたというよりは、引用されたことで誤解うんぬんの話になったと思う。心理業界の大物が、件のポストを引用リプライしたのだ。しかも「同意」のひと言を付けて。大元のポストが悪い意味で解釈される中での「同意」だから、それはあなたの本意でもあるのですねという塩梅で、それ自体が燃えた。誤解のベクトルは、被支援者の存在そのものを侮辱する方向だった。それを誰あろう支援者サイドが賛同するとはどういうことかと。

いや、でも結局それも火種は大元のポストの「誤解」だ。本意がほとんど真逆にあるというのは、それほど深読みせずとも分かると思う。で、その本意に対する「同意」なのも見えてくる。それでも、一見侮辱と読めるポストをろくに注釈も付けず引用するなんて無配慮はなはだしいというリプライが多かった。だけど堂々巡りになっちゃうけど、たとえ一見そう読めるとして、一見だけで判断しなきゃいけない理由はないので、引っかかるなら点と点を結びにいけばいいのだ。それができるのだから。

実際、元アカウントを見に行って誤解だと分かった旨のリプライも見た。「誤解なのは分かった。けど、一見して誤解を招くのは間違いない」というリプライもあった。なので「誤解を招きがちだけど意図は汲めるポスト」であっても、誤解を招きがちである時点で批判されるべき対象なのだ、一部の人にとって。そうか、切り取りうんぬんじゃなくて、もとより「単体ですべてを表現しきれていないポスト」に対して辛辣なんだな。分かる気もする。けど、個人的な肌感覚として、頷ききれなかったりはする。

もちろん批判の方向性は他にもあった。例えば「作家氏の本意が別なのは分かるけど、表現そのものがあまりにも非支持的だ」というのとか、「元ポスの本意はどうあれ、作家氏の活動自体に賛同できない、一方でそれに賛同する心理士氏には失望だ」というのとか。これらは「誤解」とは無関係の批判だ。すごく理解できる。そうだよな、そういう人は当然いるよなと思う。作家氏は支援者サイドでもあるけど、むしろ支援者とか被支援者の中にこそ反感を覚える層はありそうな気はする。刺激的なのだ、いろんな意味で。

と、だらだら書いて見えてきた。結局「1ポストで表現しきれてなきゃダメでしょ」「ひと言大喜利」的な理論を、連続性が遮断されているわけでもないポストにも当てはめて「それがXなんだ」と言っている一部の声に引っかかっているのだ私は。それ批判の理由になるのか? と。書くと頭がまとまる。コーピングコーピング。ともあれ、それがXなんだと言われたら、まあそうなのかもしれない。でもだとしたら、やっぱり私には合っていなかったのだなとつくづく思う。

あ、こんなしょーもないことをまとめにしちゃいけないな。話を戻す。表現が非支持的だという話。元ポスはあくまでも被支援者ではなく自身に向けた言葉であり、しかも「...と思っている」という感覚の話だから他人が否定はできない。でも、「自分の場合はそうだ」が成り立つなら、条件によっては「他の誰かでもその可能性がある」ことになる。そして、自分がその条件に当てはまっているのじゃないかと感じる。というのはある。それぐらい、誰にとっても「そう感じうる」土台があるってことだろう、日本の福祉自体に。や、海外がどうなのかは知らんけど。いや、てかそうなると、みんながそう感じがちだという被支援者のスティグマを浮き彫りにしただけじゃないか? 結果的に。またよく分からなくなってきた。

そもそもだけどこんなに考えても読み取れない時点で、私、ケア的精神がけっこう欠如してるのだ、たぶん。今福祉ネイリストの勉強をしているが、やっぱり半径数メートルの地域包括ケアや、パニック症の自助グループが、自分のめいっぱいがんばれるギリギリのラインなのかもしれない。つくづく。そんなことをまた思い知った。

ところで元ポストをここで引用してないから、あれとかそれとかの指示詞が多くて、知らない人からしたらずっと何言ってるか分からないnoteだったろうな。シンプルにすみません。(おわり)

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