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備忘録(1) 〜南山城を訪ねて (1)〜

久々の更新になりますが、まとまった文章になっておりません。いつか体裁を整える時のための雑記帳として残しておくものになります。雑文乱文、お許しください。

ある歌との出会い

京都での生活をはじめてから2年のうちに、訪れた京都・奈良の寺社は170ヶ所ほど。
ここまで行くと、人口に膾炙された名刹はほぼ全て行ったと言っても過言ではないし、逆に行きたいと思い続けている未踏の寺社への想いも深まるばかり。

そんな中、今後数回に分けて、時間が空いたときに南山城(京都府 木津川市周辺)を踏破しようと思い立った。

なぜ南山城に行くのか。
まず、南山城そのものが未踏の地であり、魅力的な寺社がいくつも残っていること。
そして、長閑な田園風景を愛する僕のような人間にとって、どうもその辺りには桃源郷があるらしいとの情報を得たこと。
この2点が挙げられる。

しかし、何より僕を南山城に向かわせる動機は、ある人物と一首の歌に強く惹かれたからだ。

「ある人物」とは、聖武帝のことである。
南山城地域の木津川市加茂地区にはかつて、「恭仁京」と呼ばれる都があった。
幻の都、とも呼ばれるこの宮城は、740年の暮れに彼が遷都を命じてから、完成を見ることなく僅か3年のうちに次の都へと遷都された。
山あいの地域に佇む、3年間だけ日本の首都であった街を訪れて、その様子を空想したい。
そう思ったのである。

同時に、なぜ彼は辺鄙な山間部に自らの宮都を定めたのか、なぜその計画は3年で潰えたのか、遷都を繰り返す彼は何を夢見て、何を考えていたのか。
これらを知りたくなったからである。

今ひとつは、次の歌に偶然出会ったことによる。

「旅人よ 思いいだせよ 古えの
    道を開きし 高麗(こま)の脚あと」

これは木津川市の上狛付近にある高麗寺(こまでら)跡にある歌碑のものである。
歌から読み取れるように、この地域が、今日に続く朝鮮半島外交史の黎明期を彩った地であったことが窺える。
日本と朝鮮半島の外交史に関心を持つ私にとって、この歌だけで十分魅力的な訪問地になり得るのだった。

歴史的にかつ外交史的に、南山城が新たな発見と瑞々しい感覚に溢れた場所であることを願いつつ、1度目の訪問をすることにした。

訪問 ―2021/4/4 (日)―

以下、訪問時に撮影した写真の一部です。初回は上記年月日の13時頃にJR木津で下車後、1つ北の上狛駅周辺まで散策しました。

①真言宗西大寺派 大智寺

鎌倉期創建にしては極めて大きな伽藍。土手の下にあり見つけにくい立地だが、十一面観音像は重文にも指定されている。

②玉龍山 橋泉寺

通称「橋寺」。いわゆる「行基四十九院」の1つ。
大智寺から木津川を北に渡って徒歩10分程で着く。
高さ4.58mの石造地蔵菩薩坐像は、石地蔵としては日本最大のものだという。
造立当初から露仏であった訳ではないそうで、地蔵堂は高さ7〜8mほどあったのではなかろうか。
さぞや立派な建築物であったはずだ。

③高麗(こま)寺跡

橋泉寺から徒歩20分程、JR上狛駅より東に徒歩10分程の田園風景に忽然と姿を現す。
京都府内最古の寺院跡であり、創建当時は国内最大級規模の寺院であった。
『日本霊異記』等この時代の文献に多数記載されており、渡来系氏族狛(こま)氏の氏寺であったという。
また、朝鮮半島からの使節の宿泊施設として用いられたこともあったそうだ。
上狛駅から歩くと明らかだが、この寺は木津川周辺を見下ろす高台に南面して立地しており、16年前の発掘調査では、壮麗な水煙(火炎の透かし彫り)や擦管(仏舎利を納める宝珠を貫く棒状のもの)が出土している。さぞ立派な大寺院であったことが窺える。

まだ南山城の玄関に立ったくらいの感触ですが、やはり期待を裏切らないのどかさと奥深さで、とても素敵な地域です。
次回はもう少し木津川の上流を歩こうと思います。
いよいよ恭仁宮跡と海住山寺、おまけに現光寺です。


カバー写真:JR上狛駅から高麗寺跡へ行く道中にて
(投稿内の写真は全て筆者撮影)

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