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食禅 ・ 食べるヨガ

初めて食禅にまつわる話を聞いた時のことと、小池龍之介さんという東大卒の異色のお坊さんの食禅のお話の中で驚いたことがあったので一緒に書く。

瞑想と一緒で習慣化するまでは心では思っていてもなかなか実施できないもの。読むことや感じること、イメージするだけでも、食べることの意識が深まりたい🙏


食べる量

或る日、食べるヨガの会に行ってみた話を聞いた。

「ゆっくりよく噛んで食べるから、量はいつもの3分の1くらいを持参してって言われたけど、それでお腹いっぱいになるし時間は倍かかるよ。」

省エネでもある。省エネって豊かなんだな、というアンビバレンス。

聖域

小池龍之介さんのお話で驚いたというのは、

「よく噛んで飲み込むと、喉の中を螺旋状に食べ物が落ちていくのが分かります。」


・・・・・こういう領域なのか、と垂涎。

断食から回復食に移行する時など、特に研ぎ澄まされている時でないとここまで感じられるのは至難の技だろうと、その奥域を垣間見た。

断食明けの食事の味に対しては、食レポで語られているような表現にはならないといった内容のことを語られていて、どこか謝りたくなるような気持ち。

断食明けのりんごはこんなに甘かったんだと語っている人もいて、聴いていて既に気持ちがよくなる。

知足というのは周りの人にも伝染するのだな。美人の周りは美しくなっていくあのメカニズムか・・

いつもと同じものといってもクローンではないのだし、ヨガのポーズと同じでいつも新しい気持ちで迎えたい。


いただきます

いただきます、と声を出して合掌。シェフや一緒に食べてくれる人だけでなく、食事の構成要素すべてにも向けられた挨拶。

一口ずつ、その食材についてイメージ。

どこで産まれて、育ててくれた人、運んでくれた人、並べてくれた人、売ってくれた人、買って運んでくれた人、料理してくれた人、運んでくれた人・・・

その食材の一生の流れに思いを馳せて、それが私になっていくという感覚を行き渡らせ、よく噛む。


噛む。


温度、香り、様子、質感、食感、甘味、塩味、淡味、旨味、酸味、辛味、のど越し、奥域、重み。

すべての五感と心を込めて、他に感じきれていないことはないか?と思えるくらい感覚的に浸透できるほどに、より栄養吸収してくれそう。(イメージ )

かっぱえびせんやポテチのように、一つを飲み込む前に既に二つ目、三つ目に手が伸びているのではなく、

一口よく噛んで噛んで噛んで飲み込むまでは二口目に手を出さない。


現代人にとっては、これが食禅において一番のポイントであり難所なのではないかと思う。

食禅クラスなどがあればしっかりと向き合いやすいとは思うが、気軽に家でやってみたいなぁなどという場合これが難しく、それは頑張りどころでもある笑

ここで気付けることは、如何にいつもどんどん口へ運んでしまっているかということ。ラーメンなら食べながら伸びてしまうくらいの時間はかかる。

ごちそうさまの後

お椀や器、箸、所作などにも気を配っている流派?もあるみたい。

食事というものを大切に敬い、尊び、道具にも拘る。それはありがたみを行き渡らせるためでもあって、昔からしたら当たり前のことなのだろう。

片付けの時間までも食禅の中に入っているのだと思う。食器を洗ってキッチンを元に戻すまでとか。おうちに帰るまでが・・略

人や環境や自分などにも、そのような慈しみの気持ちで向き合っていけたら、自分の心にも水を打ったような世界になるのでは。

読むこと、書くこと、深呼吸も、大事に進めればヨガで、つまり自分とも人とも丁寧に大切に向き合うこと。多分なんにでも。

読んでいただいている方の方が深く知っている場合も多いかと思うが、自分ももっと食禅の理解を深めていきたい。

書いていて気付かされるのは、ありがたみの薄れているのを取り戻すことと、日本人であってよかったなあとしみじみ。



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