コラム「小田急線無差別刺傷事件についての考察」

当該事件が起きて暫く経ってはいますが、本事件が起きてから僕なりに色々なことを考えておりました。

全然まとまってはいないかとは思いますが、思ったことを書いてみます。

僕の考える真の犯行動機

第一に、どんな事情があったとしても、無関係な人物を、いや、たとえ自分と関係がある人物であったとしても、正当防衛以外で傷つけていい理由などどこにもありません。言語道断です。

容疑者は犯行動機として、「幸せそうな女性が憎いから」と供述していましたが、僕は、本当の犯行理由はこれではないと思います。
もちろんそういった動機が全くないわけではないでしょうけど、僕は、容疑者は統合失調症などの精神的な疾患を患っていて、自分でも制御できないほどの突発的な行動に出てしまったのではないかと考えています。
「幸せそうな女性が憎い」というのは、我に返ったときに咄嗟に出てきた後付けであって、真の犯行理由は本人でも「分からない」のではないでしょうか。

なぜそう思うのかというと、ここ十数年で多くの類似事件が起きましたが、いずれも狂気を向けるその矛先、被害者のカテゴリーや犯行場所が、犯人が証言する動機から類推される対象とはずれているからです。

日頃の鬱屈や不満、精神的な病が突如、何がしか、特に事件とは関係はない瞬間に弾けて突発的な行動に出てしまったというのが僕の思う犯行動機ではあります。

恋愛・結婚に向いていない人間はいる

でも、ここからはこの僕の推測を述べておいた上で、容疑者が語った犯行動機をベースにして考えてみます。事件の動機解明は、やはり供述がベースになるため「幸せそうな女性が憎い」という証言に則っていかないといけないので。

この容疑者は「サークルで女性に相手にされなかった」「出会い系でもうまくいかなかった」など語っていました。

思うのですが、恋愛も結婚も、日本という社会ではすることが義務であるかのようにみんなに押し付けられている感がありますが、正直なところ、この恋愛と結婚というものは「向き」「不向き」があると考えています。普通にこの二つができている人には想像がつきにくいかもしれませんが、恋愛が苦手な人や、異性と一緒に生活して子どもを作って……などが不得手な人も確実にいます。それも案外、外見の美醜に関係なく。

容疑者は容姿も整っていてナンパ師としても活動していたという知人の証言もあるようですが、これはまあ話を盛っているかもしれませんが、盛っていなかったとしても、ナンパという行為は「良い女とセックスする」、という行為単体を目指すもので、それはどこかスポーツ競技に近い、競争心を煽るものなので、恋愛とは言えません。

僕は、もし原因がどうしてもうまく恋愛できなかったり、女性に相手にされないことにあったのであれば、恋愛や結婚を目指すような人生を送らなければ良かったのではないでしょうか、と思っています。

恋愛も結婚も、絶対にしなければいけないものではないし、本来、人生においてどんなことに面白さや意味を見出すか(僕の場合は読書や映画鑑賞、文章を作ること)は、僕たちは、自分で決めることができるはずです。なぜなら、この世に生まれてきた意味などないのですから。

それに現代日本においては、妻(夫)がいて、子どもがいて、郊外に一軒家があって……といった所謂「普通の生活」は、結構実現が難しいものです。そこに至るにはまず結婚相手を見つけなければいけません。でもそれを見つけることが苦手なら、いっそ諦めることも大切です。
性愛関係のことや次世代に子孫を残していくといったことは、それが向いている人たちに任せて、自分は自分の好きなことやできること、仕事とか、好きではなくてもしなければならないことを淡々とこなしていく……それで十分なはずなのに、性愛を煽るメディアなどの影響もあったのかと思いますが、明後日の方向に感化されてしまったのではないかな、と。

『弱者男性』の救済について

今回の事件を通じて、Twitterでは色々な反応がありました。その中には、学歴も収入も低いといった『弱者男性の辛さ』を訴えるTweetもたくさん見つかりました。そのTweetを発信している人たちの中には「社会的に弱い男性を愛そうとしない世の中の女性たちにも非がある」と言っている人もたくさんおりました。

確かに、女性から恋愛・結婚の対象外とされて見過ごされているというか、まるでそんな男性は存在していないかのように思われている、世間で言うところの『弱者男性』に当てはまりそうな男性たちは、います。それも結構な数。僕自身もその一人かもしれませんが、それは他人の評価次第で、その評価も人によって変わるのでここでは言及しませんが、(もしかしたら僕も含む)彼らにはなんとか浮かばれて欲しいと思っています。

でも、「社会的に弱い男性を愛そうとしない世の中の女性たちにも非がある」という意見には僕は全く賛同できません。それはつまり、「女には男を選ぶ権利はない」と言っているのと同じです。女性にだって男性を選ぶ権利はあります。男性には女性を選ぶ権利があるのに女性は男性を選ぶ権利がないというのは暴論以外の何物でもありません。それは「全ての男に女をあてがえ」と言っているようなもので、それは言わば女性を奴隷のように扱っているのと同じであり、人権侵害に当たります。

女性から選んで欲しいのであれば、それに見合う努力、見合う男になろうとする努力は必要です。
でも、見合う自分になれなかった男は見捨てられたままでいい、というわけでもありません。

大切なのは、『弱者男性』であったとしても生きていていい、と思えるような社会を作ってあげること。むしろ、『弱者』とかいう言葉を人間が意識しなくていい社会にしていくこと。

そもそも『弱者』の定義ってすごく曖昧だと思います。どのような意味で強者や弱者、勝ち組や負け組が決まるのでしょうか? これは収入や学歴などで勝手に決められている尺度であって、良い意味で「俺はこれで良いんだ」という割り切りができれば、その人はいくら収入が少なくとも、学歴が低くとも、少なくとも『弱者』ではないと思いますよ。

だから、繰り返しになってはしまいますが、あまり周囲に影響されないで自分の尺度で物事を考えて、自分が「これが好き」と思ったものとか、「これでいい」と思えたものに取り組んでいく、そしてそれが多少「普通の人生」から外れるように見えることであっても、社会がそれを許容できるようになれば良い。

現代の日本教育は、児童や生徒たち全員が前述の「普通の人生」を目指すようなカリキュラムで進んでいるので、ここに僕は根深い問題があり、文科省には多くの責任があると思います。

でも、責任があるのはそれだけではありません。

SNS特有の危険な「分断思考」について

もう一つ僕が、この事件の引き金となってしまったと感じている要因が、SNSです。SNSが台頭してから、僕たちの生活や価値観は大きく変わりました。便利にもなったし、友だちが作りやすくなり、それも世界中にできたり、新たな有名人が生まれたりと、正の側面も数多くあります。

でも、SNSには負の側面もたくさんあります。
まず、SNSはフォロワー数という形で人気の度合いが可視化されます。フォロワー数が多い人は存在価値があり、少ない人は存在価値がないように見えてしまうこともあります。
またSNSでは、発言内容や発信の仕方によって、どんな人でも影響力を持つことが可能になりましたが、だからこそ、これはもともとSNSの持つ性質的な部分でもありますが、「偏った物言い」が横行します。一般的に、「断定的な言い方」や「0か100か」といった偏った発言は人の感情を煽る性質があります。そのため、そういった発言は反響を得やすく、多くの「いいね!」や「リツイート」が付いたり、フォロワーを獲得しやすくなります。
SNSでは、どっちにも偏らない「中立的な物言い」はあまり反響を呼びません。
そしてここにSNSの負の側面が隠れているわけですね。

SNSでは0か100かという偏向した見方が飛び交って、たとえば誰かが何かをしたときや、ある政策が決定されたとき、「全てが良い」「全てが悪い」と評される傾向にありますが、
多くの物事は、本当はSNSで言われているように0か100かできっちり分けられるものではなく、グラデーションです。全てが良い、全てが悪いなんて言えないと思うんです。

でもSNSの台頭によって、そのSNSの性質に気づかずにそこに触れすぎてしまうと、自分自身の物の見方まで断定的になってしまったり、偏ってしまう。勝ち負けとか、それまでは気にならなかった事象も目に入ってしまって、悪影響を受けてしまう。
特定アカウントの発する偏った情報を真に受けて現実に対する認知が歪む。

だからこそ、今回の事件のような「幸せそうな女が憎い」という「女は楽だよね」とでも言いたげな、一方的で誤った感情に蝕まれてしまうのではないかと。

どんな人をフォローするかにも注意が必要です。特定のアカウントとそのフォロワーからなるコミュニティーは、ある意味「宗教」に近いので、その人物がどうやってフォロワーを伸ばしてきたかという経緯、どういう発言をしているのか(偏向していないか)、思考をコントロールされていないか、など注意してなければいけません。

フォロワーが多いと、まるでその人の言うことが「全て正しい」みたいな錯覚を感じてしまうかもしれませんが、実際はそんなことはありませんので、どんな意見を目にしたとしても、最終的にはしっかり自分の頭で考えて結論を出した方がいいと僕は思っています。

もちろん、全てのフォロワーの多いSNSアカウントが大衆をコントロールしようとしているかというとそうではありません。純粋に楽しんでいらっしゃったり、フォロワーを純粋に楽しませてくれたり、本当に有益な情報をくれる方々もいます。ただ、それでもSNSはどっちかの見方に偏らせて人間を「分断思考」に追いやろうとする性質が、どうしてもあると思います。

具体例を挙げると、個人的には「即断即決が大事」とか『即断即決』とよく書いているような、それを促してくるようなアカウントには注意が必要かな、と思います。思考停止に陥る可能性があるので。


SNS社会が引き起こしかねないこと

そして僕は、SNSが普及し過ぎて今は、SNS上を飛び越えてこの「分断思考」が現実社会を蝕み始めているのではないかと、危険視しているところがあります。分断思考はこれまでの人類の歴史でも戦争の原因になったりして、人類社会に災厄をもたらしてきました。これから、この分断思考に冒された人々がどんどん増えていくとなると、今回のような悲惨な事件も増えますし、先鋭化してそれぞれが崇拝するフォロワー数の多いアカウントを教祖として集団化し始めて何か良からぬことを起こす。それが散発してやがて社会の制御が効かなくなり、至るところでテロや戦争が起き、ディストピアのようになってしまうのではないか。

これは社会が何とかして今のうちに食い止めていかないといけない問題だと思います。
僕も、このnote自体がSNSの一つなので、SNSにどっぷり浸かっている人間ですが、そう思っています。

そしてこれだけSNSが広まってしまったのだから、ここから全て廃止するというのは不可能です。やはり僕は、結局は教育や躾という話になってしまうのですが、教師や親、そして大人たちが「SNSとの付き合い方」を、SNSがある世の中しか知らない子どもたちに対して、しっかりと教えていかないといけないと思います。


読んで頂き誠に有り難う御座います! 虐げられ、孤独に苦しむ皆様が少しでも救われればと思い、物語にその想いを込めております。よければ皆様の媒体でご紹介ください。