「好き」について考えてみた

僕は趣味の一環で英語の勉強をしているのですが、ときどき、

「なんで英語を勉強しているの?」

と聞かれることがあります。

そういうときは、「英語を話せるようになると何かと便利だから」と答えるのですが、それは正直、勉強する理由としては半分くらいしか占めていない。

突き詰めると、最近は実際にこうやって答えているんですが、



「特にない」

んですよね。

英語以外にも、僕は読書をしたり映画鑑賞をしたり、美容について調べたり試したりするのが好きだったりするのですが、なぜそれが好きなのかというと、もちろん知識が欲しかったり癒しを得たい、アンチエイジングなどの目的はあるのですが、本質的には、

「ただそれをやるのが好きだから」

となります。

本当に好きな“こと”って、これは“人”に対しても言えることだと思うんですが、

「好きだから好き」

としか言えないんじゃないかな、と思います。

どうでしょうか?

「なぜそれが好きなの?」

と聞かれると困ってしまった経験があって。
決まって、

「確かに考えてみるとわからないな、でも好き」

ってなるんです。
そのときに同時に僕は「あ、本当に自分はこれが好きなんだ」って再認識する。

本当に好きなことに理由がないのは、その人の無意識や本能に働きかける部分があるからだと思います。
だからこそ、理由を聞かれてもわからないし、言語化できないのかもしれない。

逆に明確な理由がある「好き」。
これは、本当にそれを好きなのかどうか疑問が湧いてくる。
そこには打算が働いている気がしてしまうんですね。

ただ、別にこれは一概に悪いこととも言えないとも思います。
ときには、本能ではなく理性で判断した方が良い場合もあると思う。
本能の「好き」に従ってしまうと、仕事でも恋愛でも、あまり良くない人に引っかかって失敗してしまうこともあるでしょうし。
この本能の「好き」が男女間で起こる摩擦の原因にもなっている気がするので、その発生を防ぐためにも、理由がある「好き」を適用した方が状況をうまく切り抜けられることがあるのでは。
(逆に本能の好きを優先したからこそ、意外な組み合わせが成り立つとも言えるけど)

まあ、そんなに上手くはいかないのですが、理由のない「好き」と理由のある「好き」。
これをうまく使い分けていけばいいのではないかと思っています。

もちろん本心の「好き」で何事も上手くいくのが一番良いと思っていますが、それだけに従って生きるのはちょっと無防備が過ぎるかな、とも感じます。

偽物の「好き」がいつか本物の「好き」になるパターンもあるかもしれないですしね。



読んで頂き誠に有り難う御座います! 虐げられ、孤独に苦しむ皆様が少しでも救われればと思い、物語にその想いを込めております。よければ皆様の媒体でご紹介ください。