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Symphony in White and Red/James McNeill Whistler

全体を構成しているのは、線。筆をなめらかに走らせた跡だ。
そのひとつひとつに色がのせられて、この世界がつくられている。

近くでみるとやはり線の存在が目立っている。
こどものころに食べた細長いひも状のグミを思い出す。
グレープ味、リンゴ味、ソーダ味、コーラ味。
それらがうねうねと集って人物なり背景なりを形どっているようだ。

あいまいに描かれている人物と背景のせいで、ぱっと見ではどんな場面かもわからない。
赤い団扇のようなものが目立つ。なにやら舞台の上で人が踊っているのだろうか。
そうではない。
遠くからみたり、目を細めてみると現在進行形で描かれた絵の物語がわかってくる。

中央の女性が船に乗り込もうとする瞬間を描いたものだ。
階段の一番下まで降りてきて、今まさに片足を船に乗せんとしている。
彼女はおそらく着物か浴衣のようなものを着ているのだろう。
右手で裾をぐいっと上に持ち上げて足をだしやすくしている。もしくは水に濡れるのを避けるためかもしれない。
左手は水平に出している。バランスを保つためか、手すりに手をかけようとしているのかはわからない。
最初、踊っているようにみえたのはこのポーズのせいだろう。
なんにせよ、この女性がもっとも具体的な存在である。

次に具体的なのが赤い団扇をもつ女性だ。
彼女は座って、柵に手をかけている。
赤い団扇はこの絵のなかで異質な存在に感じる。
なにか別のものを象徴しているのかもしれないが、それはわからない。
表情をよみとることは難しいが、手を口元にもってきて微笑んでいるようにも見える。

その女性の肩に手をかける緑色の女性はもう一方の手を下に伸ばす。
ふたりの女性は下の船に乗る人物となにかやりとりをしているのだろうか。
船に乗る人は船頭だろうか。船頭の姿はあいまいである。

さらにわからないのが左側の人物たち。
おそらく3人だろうが、表情も姿勢もよくわからない。
船に乗る順番まちだろうと推測する。

どこか幻想的で異国感のただよう作品である。
この絵の、線の質感が好きだ。

それにしても、アナログ作品である絵画をデジタルデバイスで鑑賞している不思議といったらない。
拡大すると筆致もみえてくるから不思議な体験である。
脳にとってはどうでもいいことなのかもしれない。

・直感的に良いなと思った作品を選んでいます
・芸術に関しての知識はない素人です
・観て感じたことを文章化する練習として書いています
・ゆえに以上は完全なる個人の感想であります
・読んでいただきありがとうございます

作者についてのメモ

Wikipediaさんから

印象派の画家たちと同世代であるが、その色調や画面構成などには浮世絵をはじめとする日本美術の影響が濃く、印象派とも伝統的アカデミズムとも一線を画した独自の絵画世界を展開した。

なるほど、どこかアジアテイストを感じたのも間違いではなかったようですね。他の作品にはもっとはっきり日本とわかるのもありましたしね。

耽美主義の代表的画家とも目されるホイッスラーの絵画は、現実世界を二次元平面に再現することよりも、色彩と形態の組み合わせによって調和のとれた画面を構成することを重視していた。作品の題名に「シンフォニー」「ノクターン」「アレンジメント」などの音楽用語を多用することも、絵画は現実世界の再現ではなく、色彩と形態から成る自律的な芸術だとする彼の姿勢の反映といえよう。

今回の作品の題名も「シンフォニー」がつかわれています。
色彩と形態の探求をしていたのでしょうか。

ひとつの作品を気に入ると他の作品もみてみたくなりますね。

『黒と金色のノクターン-落下する花火』は、ほとんど抽象絵画を思わせるまでに単純化された作品であった。同時代の批評家で、ラファエル前派などの新しい芸術運動の理解者であったジョン・ラスキンもこの作品は理解ができず、「まるで絵具壷の中味をぶちまけたようだ」と酷評した。このため、ホイッスラーは名誉毀損でラスキンを訴えるに至る。

ちょっと脱線的ではありますが、ラスキンと争っていたのですね。
ラスキンの考えは前に書いたゆたかさについての記事の基になってまして、ラスキンのことは知っていました。

まさかこの作品をきっかけに調べてつながりを知ることになるとは思いませんでした。こういう発見もおもしろいです。

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