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【留学記】英語に魅せられて、高校留学しました

私が高校3年生の時、初めて一人で飛行機に乗って、アメリカの高校へ交換留学した。
1990年8月だった。
その当時は、まだ今のように留学がメジャーなものではなかったので、留学が決まった時に、高校側から『留学する条件として、成績が学年トップ10に入れたら認めます』みたいなことを言われた。
成績が良くないと、現地での授業についていけない。
これは当然といえば当然なのかもしれないが、この発言が私の親をかなり怒らせてしまったことを今でも覚えている。
『学年トップ10に入れ』という条件も、「絶対に留学してやる!」と燃えていた私にとっては、さほど問題にはならなかった。
いや、むしろ、勉強に集中できてよかったくらいの『条件』だった。

さて、この【留学記】では、今から数十年前の自分と向かい合うためのものであり、エッセイのように自分の記憶を綴っていきたいと思う。
記憶が前後したり、言い回しが可笑しな場面も出てくるかと思うが、どうかご了承いただきたい。


どうしても留学したかった

私は昔、英語が大嫌いだった。
私が中学生の頃は、中学教育から英語が導入されていた。
初めて英語の授業を受けて、良く分からなかった印象しか残っていない。
他国の言語を学ぶということが、当時の私には難しすぎて、中間試験や期末試験の結果は最悪なものだった。
これじゃあいけないということで、母が評判の良い英語塾の先生のところに連れて行ってくれた。

戸建てのお家のお庭に、塾用の個室が建てられていて、初めて英語塾の先生と面接した。
「塾になんか行くもんか!」と半分不貞腐れた状態で連れてこられた私は、先生の話しかけにもムスっと表情した顔で答えていた。
今考えれば、とても恥ずかしい中学生である。
「それじゃ、今から英語で質問しますね」と先生が話された直後、日本人とは思えない、いやむしろネイティブスピーカーかと思うような英語が聞こえてきた。

え?何この英語!目の前にいる人は、どうみても日本人なのに、英語の発音はネイティブ!なんでっ!?

こんな調子で、かなり驚いてしまった。
このネイティブな発音ができる先生との出会いがキッカケで、私は英語の魅力に一瞬で引き込まれた。

『雷に打たれた感覚』なんて表現したら古臭いのだろうけど、当時の私は本当にその表現がしっくり当てはまる状態だった。
ただただ驚いて、不貞腐れた顔の私は先生の第一声で目がキラキラとした学生へと変身したはず。
それくらい、私には大きなインパクトだったのだ。

この先生みたいに英語がしゃべりたい!
話せるようになりたい!

これがキッカケで私はこの英語塾に通い、英語の楽しさを感じることができ、英語という語学を真剣に学んでいった。
その甲斐あって、試験の成績も良くなっていった。

公費留学で行きなさい

高校生の時に、英語塾の先生から「留学したいなら、私費留学ではなく公費留学で行きなさい。」と言われ、『Youth For Understanding:YFU』という政府支援団体を通していくことになった。
といっても、願書を申請して、試験を受けて、合格条件を満たさない限りは参加できない。
そして諸々の試験をクリアし、晴れて高校3年生の夏からアメリカに留学できるようになった。

先生が何で公費留学にこだわったのか。
それは、私費留学なら誰でも行けるから。
公費留学の場合は試験を受けて、受からないと行くことができない。

公費留学では政府支援団体を使い、手厚い現地のサポートが受けられる。
そのため、願書を出した全員が参加できるものではなく、もちろん選抜となる試験が実施される。

公費留学では、現地の高校が全面的に受け入れ態勢を整えてくれ、滞在中はホストファミリーが生活面(生活費含む)をサポートしてくれる。
この二点については完全無償であり、留学生が負担する費用は往復の飛行機代とお小遣いのみ。
政府支援の団体を介しての参加となるので、自身の経歴に箔が付くのだとか。
それを実感したのは、就職活動の時。
某会社の人事部の方からも『どこの団体を通じて留学されましたか?AFS?YFU?』なんて質問を受けた。
やっぱり知っている人は知っているのだと実感した。
公費留学については記事を執筆しているので、こちらを読んでいただきたい。

最初のホストファミリーはテンポラリー

アメリカの新学期は9月から。
なので、渡米は8月の半ば頃だったと思う。
パーマネントなホストファミリー(一年間ステイできるホームステイ先)がまだ決まってない状態で出発したため、最初にステイした先はイリノイ州の南にある小さな町で農業を営む老夫婦のお家だった。
とても優しい老夫婦で、おじいさんは魚釣りに連れて行ってくれたり、おばあさんは野菜の種類なんかを丁寧に教えてくれたりと、ゆっくりとした優しい英語で話してくれたような記憶が残っている。

この老夫婦のお孫さん達とも仲良くなって、よく自転車に乗って町の中を周ったり、話し&遊び相手にもなってくれた。
とても田舎の町だったので、夜には満点の星空が広がっていた。
こんなに綺麗な天の川なんて日本でみたことがない。
そう思ったのを今でも覚えている。

このお家には2週間ほどしか滞在できなかったけど、優しい思い出がいっぱいある。
帰国の前に一度会いに行ったけど、ホストファミリーとしての期間はほんの2週間ほどだったのに、暖かく迎えてくれたのが嬉しかった。

庭に四葉のクローバーが群生しいて、おばあさんが「このお庭はラッキーなクローバーがあるから、探して!」って教えてくれた。
ホントに探せば四葉のクローバーがあちらこちらにいっぱい群生している!
私の人生であんなにもラッキーなクローバーが群生しているお庭はみた事がなかった🍀

パーマネントホストファミリーとの出会い

やっと受け入れ先のホストファミリーが決まり、テンポラリーのお家から移る日がやってきた。
迎えに来てくれたのは、ホストファミリーのリンダ(ホストマザー)、ジェシカとレティー(ホストシスター)だった。
3人と車に乗ってアストリアという町に向かった。
3人とも優しく自己紹介してくれたが、その時は「これからどうなるのかなあ。この人たちと仲良くなれるのかなあ」って考えていたような気がする。
それほど、テンポラリーホストファミリーとの生活が楽しすぎたのかもしれない。

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今日は、これから1年間お世話になるホストファミリーに会ったところまで。
夜のフリーウェイを移動したので、当時は心細くなっていたのかもしれない。


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