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まだ、おぼろげな夢の話を

先日、僕はnoteにこの記事を書いた。

情報過多のこの時代、日常さまざまな場面で、さまざまなかたちの夢や理想を耳にする。そのたびに僕は、パタンと耳をとじ、聞こえないふりをしたくなる。それくらい他人の夢は、刺激がつよい。

僕としては、隠遁者のようにしずかな環境で丁寧にずっと暮らしていければそれでいい、と願っていた。それが理想だとおもっていた。

しかし、冒頭の記事にも書いたことだが、とくにきっかけがあるわけでもなく、最近は妙にやる気がある。あれもこれもと手を出しては、引っ込めたりを繰り返している。

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その夢(というほど大層なものではなく、やりたいこと程度のもの)のひとつに、YouTubeがあった。

いわゆるワイワイ仲間とたのしい企画をやるようなものではもちろんなく、日々の暮らしを映像にして、記録し、そして発信する、つまりvlogのスタイルにずっと憧れがあった。

おもえば僕が幼いころ、どこへ行くにも両親の手には、動画撮影しか機能がないシンプルなビデオカメラが握られていた。もともと機械やハイテクなものに長けているわけではないため、撮りたいというより、「いまこの瞬間を残したい」という親心がそうさせていたのだろう。それにしても、人というのは年齢を重ねるにつれて、見たもの、聞いたものを記録したくなるものなのだろうか。

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ところが最近、その熱が急速に冷めはじめていることに気がついた。

もともこもないことを言えば、シンプルにYouTubeよりも他にやりたいことがけっこう明確になってきたからかもしれない。「夢の優先順位」が定まってきた、というわけだ。

そしてそれ以上に、僕は「かたちのあるものをつくりたい」という潜在的な欲求があることを知った。目に見えて、実際にさわれて、五感でその存在を感じやすいものだ。とくに最近は、過去にいちど道を外れた建築の世界にもふたたび興味をもちはじめている。

とはいいつつ、このnoteもやりたい夢のひとつではある。だが、毎日書かないという選択をしてから1か月以上が経ち、すっかり記事やアカウントにたいする責任意識が薄くなってきたような気もする。

毎日書いて書く習慣をとりもどしたい欲求と、数日に1回でいいから自分が満足するものを書ければそれでいいという欲求が、僕のなかでさわさわと揺れている。

でも、まあ。とりあえずはいまのスタイルでいこうとおもう。もちろん、毎日満足のいくものを書けるにこしたことはないんだけれど、書きたいときにすきなことを書けるいまの心地よさを手に入れたことは僕のなかではだいぶ大きい。noteとは、付かず離れずのいまの関係が合っているのかもしれない。

いずれにしても、やりたいことが多くあるといういまの環境に感謝しつつ、それにむかって突き進みたい。もう少し僕のなかでそれらの輪郭がはっきりとした頃に、noteに書いてまとめようとおもっている。

僕の記事をここまでお読み頂きありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 頂いたご支援は、自己研鑽や今後の記事執筆のために使わせていただきます。