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利休聞き書き 「南方録 覚書」
20代のときから表千家に入門し、約8年ほど教室に通っていた経験があるので、お茶に関する歴史やお作法などは、一般的な人よりは少し詳しいとは思う。
茶の湯といえば千利休は誰もが知る有名人。南方録は高弟南坊宗啓が、利休居士からの聞き書きをまとめたものとされる。
現在でいうと、、エピソード集?エッセイ集的な立ち位置なのだろうか。図書館でたまたま見つけ、手にとって、しっかり読んだことがないので借りてみたら南方録の訳だけでなく、解説も加わりとっても楽しめた
感じたこと
短歌や、日本画も、見えていない部分・表現していない部分がとても豊かだ。茶の湯での美しいとされる表現も、不完全で・移ろいやすく・簡素であることが草案茶ではよしとされる
心の持ち方
心の持ち方もとっても難しい、、
技を見せよう・茶入を見せようと、自分のエゴが慢心を一服に持ち込んではいけないと。「もてなす」という心に最も大切なものがある
茶道ってホント、高度な遊びだなーと思う。お互いに教養や汲み取る感受性が高くないと、わかりあえない。だが、その知識をひけらかしたり・豪華なもてなしをするのはよくないと。。
利休好み
利休が嫌がるのは、「考え抜かれて・もてなそう!と力が入って準備されたもの」
好むのは、「いま、そこにあるもので工夫して用意し、気持ちを込めてもてなす」あと「足りすぎてはだめ」「軽く軽く」
美食や美酒を楽しみ、美しい建物を立て、露地を整えるなんて侘び茶の本質ではない。侘び茶は足るものの中で、和敬静寂 一期一会を大切にする。禅修行であると。
昭和に入ると、茶の湯はいつのまにか女性のお稽古ごととして豊かさ・教養の象徴として扱われてきた。禅修行というよりは、優美な着物や茶碗を披露し合う場所といった感じ。本質とはどんどんずれてきているのかもしれない。
茶の湯な思考を取り入れる
500年も前に開発された茶の湯のほうが、2019年現在のあり方にはあっているかもしれない、、なんて感じた
ものも情報も人も環境も、きづけば溢れてしまう毎日これ以上 増やさず、なんなら減らしていって
暮らしの中にこそ、美しいなーいいなーと、わずかでも感受性豊かになれれば
和敬静寂(和らいだ心で接しお互いに敬うこと)な在り方に近づけるのかな