元カレのはなし

今日は今年始まって以来くらいの、最悪な日だった。朝は気持ちよく目覚め、朝日が昇るなかいつもより早い電車に乗って清々しい気持ちだった。

きっといい日になると確信していたのに、さんざんな結果になった。仕事で予想外の失敗をし、昼にもあり得ないミス、というより礼を欠くようなことをしてしまいへこんだ。へこんだ気持ちのまま帰りに皮膚科に行けば番号はすぐ迫っているのになかなか呼ばれず、待合室で平気で長時間騒ぐ親子に遭遇、やっと診察が終わったと思ったら処方箋受付はどこも締め切り、元気を出そうと牛丼を食べて帰ろうとしたら操作を間違えてテイクアウトになってしまった。

さすがにもう悪いことはなかろう、と思いながら牛丼をもってとぼとぼ帰っていると、家の前についた途端に死にかけのセミが落ちてきて最後の力を振り絞りもがいていた。

こうして振り返ると仕事のミス以外大したことは起きていないし、仕事のミスでさえも反省して次に生かせばよいだけなのだけど、こういう小さな不幸や失敗が短時間で積み重なるとどうしようもない気持ちになる。普段は楽しく生きているのに、ふと誰かの助けが必要だ、と思う。私はぼんやりしすぎているから、誰か一緒にいてくれたら心強いのに、と思う。つまり、一人の人生に急にうんざりしてしまうのだ。

バタバタ暴れるセミを眺めてどうにもできず途方に暮れながら、もう五年は会っていない元カレに会いたいと思った。電話の画面を開いてしばらく立ち尽くしていた。話を聞いて欲しいと思った。「死にかけのセミが玄関にいて思い出したんだけど元気?」とか脈略もなく話したいと思った。助けて欲しいわけではない、聞いてくれたらそれだけでいいなと思った。それは私にとって、「甘えたい」と同義の感情だった。そして、彼ならきっと困惑せずに聞いてくれるだろうと思った。

思い浮かんだのが最近の好きな男の人でもなく、これまで親しくした男の人たちの誰でもなく元カレなのはやっぱりそういうことなのだと思う。結局のところ私にとっていざというとき顔が浮かんで、心置きなく甘えたいと思えるのは元カレくらいなのだ。

それでも電話をかけられなかったのは、彼には今の幸せがあるかもしれなくて、それを壊したくないと思ったからだ。私たちは友達と繋がるためのSNSはやっていない(彼は始めていたりするかもしれないけれど)から、お互いの現状を知らない。知らない以上は今誰かと一緒に幸せに過ごしている可能性を信じるべきだし、信じたいと思った。

どうにか帰宅してやっとの思いで食べた牛丼は美味しかった。それに、皮膚科の先生にもだいぶ肌が綺麗になった、順調だとお墨付きをもらった。これから仕事の振り返りをして、来週の私のために勉強をして、さっさと寝てしまおうと思う。大丈夫そうだ。私はまだまだ一人で生きていけそうである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?