見出し画像

アマデウス/奇異なる天才の魅力

『アマデウス』を何気に5回目を観てしまった。

これまで観た映画を回想していると、フトあの映画のあのシーンをもう一度見てみたいなぁ、となることも多々ある。今は便利なことにNetflixはAmazonプライムで簡単に見たい映画を即観ることが出来る。ので、反面困る。

なぜ困るのかと云えば、その見たいシーンを数分見ていると再度初めから見たくなり再視聴してしまう、という展開になるからです。

でも観終わると、再び「あぁ、見てよかった」と思うのが本当に良い映画だと思います。

映画『アマデウス』は、1984年に製作された映画。ブロードウェイの舞台『アマデウス』の映画化である。

登場人物はF・マーリー・エイブラハム演じるアントニオ・サリエリを中心として、トム・ハルス演じるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのなんとも言えないおもしろい映画。

物語はこの映画の進行役とも言える、サリエリが自殺未遂を図り精神病院送りとなり、そこでとある若い神父に懺悔の回想の中でモーツァルトを殺したのは私だ、と語り出す事ではじまる。

「許してくれ、モーツァルト!君を殺したのは私だ」

サリエリは元はオーストリア皇帝に使える宮廷音楽家だった。人々に愛され皇帝にも寵愛を受けるほどに、サリエリは人生の最良の時期を過ごしていた、彼が来るまでは。

彼とは、天才作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。

モーツァルトはサリエリとは正反対の人格で、天真爛漫、女好き、人前でも平気で屁を捻る、宮廷音楽会の席でも平気で奇声を叫ぶ、、、云云かんぬん。。。

とにかく宮廷の作曲家から、モーツァルトは軽蔑しまくられていた。

しかし、、、

人間性ではとかく奇異なモーツァルトであるが、稀なる音楽の天才性を持っていることを、唯一サリエリだけが見抜く。そして驚愕する。

「モーツァルトの才能が神の寵愛を受ける唯一最高のものであること」そして「自分はモーツァルトの真価が分かる才能しかない凡庸な人間だ」だと。

そして物語はこのサリエリのモーツァルトへの強烈な嫉妬心と、モーツァルトが生み出す楽曲への底知れぬ愛から悲劇へと徐々に発展していく、、、

というストーリー。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトという人物を僕は直接知りませんが、もしこの映画のキャラクター通りだとすれば、もちろんモーツァルトは天才というジャンルに属すると思う。

野球界でも今では大谷翔平選手や、少し前ならイチロー選手のことを天才打者とよく表現される。でも、僕は彼らは「天才」ではないと思う。大谷翔平選手やイチロー選手は当然偉大な成績を持つ、偉大な打者だと思う。凄いと思う。だけど天才ではない。

彼らはともに突出した精神性を実行に移した努力人なのだ。精神性が崇高であり、見習うべく人格の代表的な人たちなのだ。

しかし、僕が定義する天才とは、そういう人たちとは居場所が違う。

まず、天才は人に理解して貰おうとは最初から思っていない。興味あることだけに猪突猛進し、自分だけが満足いく結果を追い求める。それに対して起こる周囲への迷惑なども考えない。一見サイコパスかと思えるほど非情な場合も多々ある。

そして「恐怖」を恐れない。

そういう尋常でない精神性ゆえ、超感覚もずば抜けて優れているだろう。その結果、自分の知識や経験以上のアイデアを、どこかと繋がりバンバン作品なんかにも生かす。

今風に表現するなら、天才とはヤバすぎる人、ということになる。

僕が思う天才とは、こういうクレイジーさ、狂気をどこか内に秘めた人なのだ。

しかし天才らは、どこか人を魅了する部分がある。

とくに僕は昔からこういうクレイジーな天才が大好きで、そういう人たちが登場する本や映画もついつい何度も観てしまう、ということなのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?