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表現の意図はまだ紐解けない

内面を文章で表現できるのに憧れる。その文章が端的に表現できるほど越したことはない。

大学生の頃、数学の研究が捗らなかったとき、何てことのない瞬間にふと解法が思い付くときがあった。すぐさまペンを取り、ノートに試してみると上手くいくのである。

昔、彼女と喧嘩した。私が怒っている理由を冷静に紐解いていこうと考えた。しかし、整理するためにもそれらを文章に起こそうとするとどうしてもその時考えていた”もの”とは別な”もの”へと変わってしまうのだ。頭の中で絡まった1本の毛糸を解いたと思っていたが、文章へと実体化させようとすると僕の目に映るのは拙い簡素な短文ばかりだった。1本に思えていたのがただ糸くずが絡まっていただけのようにしかなっていなかったのだ。
どうしてあの時、頭の中では一筋の考えがまとまっていたはずなのに、文章に起こそうとするとポロポロと抜け落ちてしまうのだろうか。最初は確かにここの糸は繋がっていたはずなんだけどなあと思うのが多々ある。

仕事の帰り道、歩きながら考えた内面の自分との会話も忘れず文章に起こそうとすると既にあの時の再現性はなく、悲しくなってパタンとノートを閉じてしまうのだ。

テレビを観ていると、毎日反省日記を書くタレントをしばしば見かけるようになった。毎日、その日あったことの良くなかった点、感じたところをメモしていくのだ。
その方たちはメモをしているからエピソードトークの引き出しを多く抱えていられるし、感情の鮮度もまた違う。トークへの感情の乗っかり具合、重みが他者とは違うのだ。
どことなく私が抱えている問題の糸口になりそうな習慣である。

感情は時としてスッと言葉で表現できることはある。
どうも思いを言葉で表現するのが僕は苦手だが、やっぱり話す相手によって頭の中の考えを言葉や表現に即座に変換できるときは来るものである。
自分でも内心驚きながらトークを進めているときがある。仕事上の自身の状況をレストランのコックで表現したとき、この表現をさらに磨けばより多くの場面で使用できるぞとニヤニヤしたものである。

逆も然りである。準備をしてきたのにまったく説明できない時がある。自分の考えを煩わせながら整理したにも関わらず、いざ当人を目の当たりにすると、シャンプーしたっけ(私はちょくちょくある。)となるように準備が水の泡になってしまうことがある。
喧嘩後に彼女と会うときが特にだ。きちんと伝えてお互いに理解して喧嘩を終わらすべきなのに、怒っていた理由すら忘れてしまうのはやめて欲しいものだ。1人になるとまた思い出して悶々としてしまうのである。

僕には対面で考えをスッと言える練習ももちろん必要だが、言葉選びや構成を意識して言葉を紡ぐ練習を重ねていく。頭に思い付いたことがスッと文章に起こすことができるようになるまでコツコツと行っていく。
最後に書きたい文章をできるだけシンプルに表現してみる。

バスケットボールを購入した。蟠った(わだかまった)感情を”バスケット”でとにかく放ちたかったのだ。
購入した帰路、雲は無情にも街を濡らし始めた。
泣きたいのはこっちのほうだわ。

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