無意味で滑稽

2019年の忘年会は30人参加したのに対して、居酒屋の個室は20人規模だった。
元々20人の予定だったが、当日の業務が終わり、会場に行くときには、数珠つなぎで人が人を誘い、結果的に10人もキャパオーバーしてしまうという結果になってしまったのだ。
当時の僕は長テーブル2つの間(人の背中と人の背中の間)にちょこんと体育座りしていた。
お開きになって忘れ物チェックをするために最後まで残っていると、先輩から「(本人も)全然食べられていないだろうし今のうちに食べるぞ」と言われ、残り物をみんなが部屋から出るまでせっせと食べていた。
小池百合子都知事が当時のこの状況を見て「密です」と言って、怒られてしまうんだろうな。当時の状況を滑稽な姿だなと自分でも思います(笑)。

最近、外傷でもなくウイルスでもない心の病気に目を向けるようになった。
コロナによって外出は避けられ、閉塞感が増した。
「おうち時間」を上手く有効活用できない人も必ずいる。片づけを行おうとして、結局2週間経ってしまう、そんな感覚でズルズルとただ家にいる時間が増えてしまった人も多いはず。
私もその1人でボーっとするだけであったり、うまく趣味を見つけ没頭するだけの時間をまだ作ることはできていない。

先ほどの「ただ家にいる時間」だとリフレッシュの要素が含まれてはいないから、家にいる時間が「在宅勤務」の場合、「家にいる時間」=「仕事時間」として置き換わってしまう。100%オレンジジュースは美味しくて嬉しいが、100%お仕事時間は濃密すぎて胃が荒れてしまう。

勤務スタイルが在宅勤務に変わり、コミュニケーションも大きく変わった。
ふとした時に起こる隣の人との雑談やタバコ休憩で交わす何気ない会話、すれ違った顔見知りとの挨拶まで、たくさんの「当たり前」が変わってしまった。
言葉を交わす、その大切さを感じた。人との信頼は一度作り上げたら、きっかけがない限り壊れない。しかし、作り上げたものを「会話」や時間などの経験の「共有」を幾ばくか行っていかないと「信頼関係」は忘れてしまう。物忘れみたいに実際にあるのだけれども見当たらず焦ってしまう、無くしてしまったと思ってしまう、そのような感じだ。
「言葉を交わす」のは何でもよくて、ベイマックスの「(グータッチ)パラララララ」のようなお決まりの挨拶とかがあるのであれば、それが相手との信頼関係がここに置いてあるなと忘れずに感じられる、ボケ防止の1つになる。

チャットでの会話はあまり効果ないと感覚的に思う。なぜだろうな。
たしかにチャットが主になってしまうと、自然と伝える前に「文字でこれは相手に伝わるのだろうか」「こう捉えられてしまうのではないのか」と相手に送る前後で自分で胸にゴミをつっかえてしまう。
雑談も含めて相手が見えないからこそ、チャットでも自然と塵ほどのストレスを自らが抱えているのだろう。「塵も積もれば山となる」のことわざ通り、チャットですら病の原因になりそうで怖いのである。

五感が使えないから頼りにできる情報が少なく、負荷がかかりやすい「チャット」よりも、表情や声色を「見る」「聞く」五感を使い、何気ない会話、他愛もない雑談が無意識に心を潤していたのだなと、今、枯渇しているからこそ気付きました。

「滑稽」に触れにくくなり「滑稽さ」を適度に経験しないと人は脆くなってしまうのかも知れないですね。

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