「俳句」を遊べ①

古池や 蛙飛び込む水の音

    松尾芭蕉の言わずと知れた名句だ。日本に生まれて、これを一見も一聞もせずに生活してこれた方がいるというのなら、もはや名乗り出てほしいほどの認知度だ。
    では、この俳句の「よさ」を説明できる読者はいるだろうか。無論、芭蕉本人に確認しないことには、それが正解か否かは不明であるが、少なくとも、この俳句が有名であることには有名たる所以があることを看過することはできない。
    この俳句の「よさ」。それは、一言でいえば、

超激エモ蛙ジャンプ・エクストリーム侘び寂び池ポチャ


である。

    待って。ブラウザバックしないで。
    至って真剣だから。土下座するから。
    芭蕉と曽良にリンチされそうな勢いであるが、仮令、顔面がボコボコに腫れ上がろうとも撤回するつもりはない。
    とはいえ、流石に少しふざけすぎた自覚はあるので、もう少し丁寧に説明しよう。

    前半の「超激エモ蛙ジャンプ」。そのままだ。
    この句の季語はなんだろうか。そう、蛙だ。
    俳句の基本として、「季語」が句の主役となる必要がある。つまり、この句の顔は蛙。それ以外の14文字(14音)は、この蛙の引き立て役。バックダンサーなのだ。

    しかしながら、この優秀なバックダンサー選びこそが俳句の一番難しいポイントとも言えるかもしれない。
    もちろん、主役選びはとても大事だが、極端な話、有限個しかないのだから、そのうち見つかる(角川の『俳句大歳時記』で2万前後。季節を限定すれば4千、見出しだけに絞れば千くらいだろう)。
    しかし、季語以外の言葉はその程度では済まない。例えば、『広辞苑』の言葉をランダムに2つ組み合わせて任意の俳句を作る場合、その組み合わせは単純計算で約25万×25万=600億。1秒に一つ俳句を生成するマシンを使っても、網羅するのに約2000年かかる。途方もない。
    しっかりと選定が必要であることがなんとなく分かるだろう。

    蛙 を季語とした俳句は、恐らくだが文字通り五万とある。いや、5万程度じゃ効かないかもしれない。それなのに、この句が「最も有名な俳句」というレベルにまで神格化されているのは、言わずもがなバックダンサーによる「蛙」の引き立て具合が最強だからだ。
    この「蛙」が「飛び込む」という動作に現代でいうところの「エモ」を生み出している要因は「古池」にある。

  ここで、読者の多くはこう思ったかもしれない。
  そもそも、

古池ってなんだよ。

    ごもっとも。
    もっといえば、現代の我々の生活に「池」がそんなにない。というか、あるんだろうけどそんなに頻繁に行かない。だから、「池」って何をするところ?と聞かれても、ピンと来ない。
    それどころか、「池」と「湖」と「沼」の違いすら怪しい方がいるかもしれない。
    池は、人工的に作られたでっかい水たまりである。湖や沼と比べると浅くて小さいとされている(明確な定義は結構ガバガバらしいが)。
    では、そんな「池」を脳内でイメージしてほしい。
    サイズや場所はみなさんにお任せする。

    そしてそこに、「古い」要素を付け足していく。読者のみなさん各々の「古さ」でよい。
    そうして浮かび上がった景色こそが「古池」なのである。
    100人いれば、100様の「古池」があるはずだ。

え、それいいの???


    いいんです。
    むしろ、だからこそ「よい」のである。
    全人類が同じものを見て「美しい」とか「かっこいい」とか思うことなどないわけで。その人なりの美的感覚でそのものは捉えられ、評価される。
    だったら、受け手にとって一番「都合のいい古池」を想像してもらえた方が、詠み手としては得なのである。
    普通の文学ならば、その個人差を取り除くために細部にこだわり、具体的に描写するのがセオリーなのだろうが、俳句は、なにせ17音しかつかえない。「想像に任せます」が誤魔化しやはぐらかしではなく、本当に「想像に任せざるを得ない」部分がほとんどなのである。

    本題に戻ろう。みなさんの脳内の「古池」という舞台装置に主役の「蛙」を立たせてみて欲しい。
    人によっては、あれ?ミスマッチだぞ? となって古池の景色が少し変わるかもしれないが、もちろんそれも構わない。
    さぁ、そうして「古池」のへりに佇む蛙が・・・・・・

飛び込んだ!!!

    古池に向かってオリンピアンさながらの着水。金メダルだ。
    では、ここで問題だ。この時、どんな音がしただろう。
    おそらくは「チャポン」とかそういう慎ましい音であっただろう。
    どうして分かったの? という方。これが、メンタリズムです。簡単な理屈だ。それが「古池」に飛び込む「」だからだ。
    言い方を変えよう。これが、「海原」に潜る「鯨」ならどうだろうか。おそらくは「バシャーーーーーン!」とか「ザバーーーーーン!」みたいな音を思い浮かべるだろう。
    「古池」という静かで小さな水たまり。ある人は日本庭園を思い浮かべただろうし、ある人は山奥を思い浮かべただろう。そしてそこに飛び込む「」という小さな主役。
    それゆえに、「水の音」もまた静かで、慎ましい「侘び寂び」の響きなのである。

    これが、冒頭の

超激エモ蛙ジャンプ・エクストリーム侘び寂び池ポチャ

の真相である。
    言ってしまえば、芭蕉は「チャポン」とか「ポチャン」という音を17音を使って表現したということなのだ。
    そのためには「古池」でなくてはいけなかったし、「蛙」でなくてはいけなかったのだ。
    そして、その音の後。私たちの脳内には静かな古池が残り、その水面には蛙の飛び込んだ後の波紋がどこか厳かに広がっていくのである。
    この余韻。空白。「書かれていないこと」を「想像させる」という、詠み手と受け手の間での信頼関係が俳句にはあるのだ。

    さて、なんとなくここまでで「俳句」の敷居の高さのようなものは取っ払えたのではないだろうか。
    思い立ったが吉日。皆さんにはこれを読んだ足で「俳句歳時記」を手にして欲しい。
    なんだかんだと長々と講釈を垂れたが、結局は「たくさん詠む」。これ以上の近道はない。
    私とて修行の身。
    共によき俳句ライフを楽しもうではないか。

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