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マキャヴェッリが見た夢

俗に「マキャヴェリズム」と言えば、目的や利益のためには手段を選ばない権謀術数のリーダーシップ論として知られ、主に批判的な文脈で語られることが多い。実際に著書『君主論』に書かれていることを一部抜粋してみよう。

人が現実に生きているのと、人間がいかに生きるべきかというのとは、はなはだかけ離れている。だから、人間がいかに生きるべきかを見て、現に人が生きている現実の姿を見逃す人間は、自立するどころか、破滅を思い知らせれるのが落ちである。

マキアヴェリ『君主論』中公文庫

恐れられるのと愛されるのと、さてどちらがよいかである。(中略)
どちらか一つを捨ててやっていくとすれば、愛されるより恐れられるほうが、はるかに安全である。(中略)そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものだと。

マキアヴェリ『君主論』中公文庫

君主にとって、信義を守り奸策を弄せず、公明正大に生きるのがどれほど称賛されるものかはだれもが知っている。(中略)大胆にこう言ってしまおう。こうしたりっぱな気質をそなえていて、後生大事に守っていくというのは有害だ。そなえているように思わせること、それが有益なのだと。

マキアヴェリ『君主論』中公文庫

こんな調子で、理想に拘泥せず現実を見て、時に冷徹に判断し、果敢に事を実行せよと君主に覚悟を迫ってくる。読んでいるこちらも悲しくなるほどリアリスティックな目で、人間とその集団を見ている。敬虔、慈愛を美徳とするカトリック教会にとって、この人間観や君主像は受け入れがたく、長らく禁書扱いされていた。彼の思想が日の目を見るのは、ようやく19世紀に入ってからのことだった。

しかし、実際のマキャヴェッリは、友人と交わしていた書簡の中では「わが魂よりも祖国を愛する」と語るほど理想に燃えた人物で、『君主論』を書いていながら、フィレンツェ人らしい共和政シンパであったようだ。また、喜劇の戯曲作家でもあった。生前はむしろそちらで有名だったらしい。『君主論』自体、論理的に構成された文章の随所に彼独特の詩的な言い回しが見え隠れしていて、どこか微笑ましさを感じる。結びは一世代前の人文主義者ペトラルカの詩「わがイタリア」の一節を引用し、祖国の未来に希望を込めて締めている。

美徳は狂暴に抗して、武器を持って起たん
戦火はすみやかに熄まん
イタリアの民の心に
古えの武勇はいまも滅びざれば

マキアヴェリ『君主論』中公文庫

『君主論』で述べられていることを「マキャヴェリズム」とレッテルを貼り、それが彼が示した普遍的な主義主張のように考えてしまうと、本来マキャヴェッリが見ていたこと、考えていたことを見誤ってしまう。彼が生きた時代背景や、それが書かれた文脈と合わせて読み解かなければならない。

ルネサンスの舞台裏

マキャヴェッリは、1469年フィレンツェに生まれた。ちなみにレオナルド・ダ・ヴィンチが1452年生まれで、ミケランジェロが1475年生まれ。時代はルネサンス最盛期からその終焉に向かっていく15世紀末、16世紀初頭のイタリアである。

ローマ帝国滅亡以降、イタリアは強大な王権が確立することなく、商工業や金融業によって発展したいくつもの都市国家が勃興した。そうした都市の中から特に強力なものが周辺に支配領域を広げていった。ヴェネツィアやフィレンツェがその代表である。

そうした国では、商人や職人とともに、都市を実質的に治める貴族層が暮らしていた。中世ヨーロッパ社会の例に漏れず身分階層は厳格に存在するが、同じ空間を共有し、故郷となる都市を守る運命共同体として、ある種の平等精神が息づいていた。丘の上の城に住み、領民を見下ろす封建領主型貴族との違いがそこにはあった。

そこでは、自由と自治を愛する市民精神、商業から発展した合理主義的なものの考え方、マニエラ(技術・技法)への礼賛、貴族も職人も文人も区別なく、個々人が名声を渇望する個人主義が培われていった。

15世紀末になると、無数の都市国家群も徐々に統合され、五つの勢力に収斂していった。ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ナポリ王国、そしてローマ教皇領である。これらの勢力が周辺の小さな領主を巻き込んで絶えず抗争を繰り返している状態が続いていた。

中世世界ならどこにでも見られる分裂抗争状態だが、イタリアならではの事情が二つあった。一つはローマ教皇という存在。世俗領主ではないが、中部イタリアに広大な領土を有している。聖職者のため公式な軍隊は持たないが、その権威によって各勢力を動かしうる。この当時はすでに十字軍のような熱狂を生むことはないが、外国の王すら動かしうる権威を持っていることは変わらず、常に台風の目となる存在である。

もう一つは、列強国家からの干渉を絶えず受ける状態であったこと。この時代、周辺には強力な王権が育ちつつあった。フランス、ドイツ(神聖ローマ帝国)、スペインは、隙あらばイタリアに勢力を伸ばそうと虎視眈々と機会を狙ってた。イタリアを舞台とした列強国家同士の抗争が本格的に始まるのが、1494年のフランス国王シャルル8世によるイタリア侵攻以降である。

傭兵天国イタリア

ここで、当時のイタリアではどのように戦争が行われていたのかを見ていこう。都市国家成立初期は、愛郷心に支えられた市民軍が主力を担っていたが、経済的に豊かになるにしたがい金で傭兵を雇って戦争を行うようになっていった。国家が傭兵依存を生む構造については、前回の記事を読んでいただきたい。

15世紀イタリアは、先程述べたような五大勢力の抗争の間を縫って、小勢力が乱立しているような時代だった。そんな状態の中で、力を持った傭兵隊長が権力を奪取し、新国家を樹立する下剋上の様相を見せ始めた。その代表的な存在は、ミラノ公国を統治するヴィスコンティ家の傭兵隊長として活躍し、謀略によってまんまとミラノ公爵の座を簒奪したフランチェスコ・スフォルツァである。我が国でいうと、斎藤道三のようなイメージだろうか。

また、時のローマ教皇アレクサンドル6世の庶子であったヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアは、傭兵隊長としての卓越した戦争指揮と謀略によって中部イタリアに統一勢力を樹立しかけたが、教皇の死後急速に没落してしまう。当時フィレンツェ共和国の官僚であったマキャヴェッリとも接点があり、その力量は『君主論』に大きなインスピレーションを与えた。

このようにして、傭兵隊長の領主化が進んでいく。中央権力不在の空白地帯に乗り込み勝手に主権者を僭称しはじめる。そして、それぞれの領地を収める君主でありながら、他国と傭兵契約を結ぶようになる。

国同士が戦争を行う時、それは傭兵同士の戦いになる。真剣に命を取りあってもお互いにとってなんのメリットもない。頑張って早期決着しても契約打ち切りになってしまう。そこで傭兵隊長は示し合わせて、戦いを長引かせる。マキャヴェッリは、この八百長まがいの戦い方を「密集隊形を組まず、散開して戦線に突入してくるイタリア人の攻撃(中略)。このイタリア式攻撃方法に対して、小競り合いという名前がつけられている」と皮肉を込めて吐き捨てる。

マキャヴェッリは、国が傭兵に乗っ取られ、しかもそれに依存しているような状態を「傭兵はイタリアを奴隷と屈辱の地と化してしまった」と、痛烈に批判した。脱傭兵を果たし、今一度市民兵団を組織して外国勢力から祖国を守ることこそ、彼の悲願であった。

サッコ・ディ・ローマ

もう一つ彼が批判しているのが、外国に支援軍を仰ぐことである。『君主論』の中で、「傭兵軍のいちばん危険なことは、彼らが怖気づくことであり、外国支援軍においては、彼らが勇猛に走るときである」と述べている。

ナポリ王国継承権を主張してイタリアに侵攻したフランス国王シャルル8世以来、五大勢力の抗争に割って入る形で、外国勢力が入れ代わり立ち代わり介入してきた。フランス国王ルイ12世、フランソワ1世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、スペイン国王フェルナンド。これらの勢力はイタリアの国々が見たこともないような大軍勢を引き連れてきた。小国家が乱立したイタリアでは太刀打ちしようもない。時代は中央集権的な絶対王政に移行しつつあった。

そしてついに、ハプスブルク家のスペイン国王カルロス1世が、神聖ローマ皇帝も継承してカール5世して即位。スペインとドイツを領有する巨大勢力が誕生した。これに対抗すべくフランスとローマ教皇が神聖同盟を結成。激怒したカール5世が懲罰軍をローマに差し向けた。

二万人からなる皇帝軍の主力は、ドイツ人傭兵部隊で悪名高きランツクネヒトとスペイン人傭兵部隊。ランツクネヒトはルターに刺激を受け、カトリックの総本山であるローマを腐敗の象徴とみなし、嫌悪感を抱いていた。彼らは一様に貧しく、腹をすかせながらボロボロのなりでアルプスを越えてやってきた。行軍が過酷であればあるほど、憤懣は募っていった。

ここで傭兵に対する給料の未払い問題が起こり、傭兵たちは暴発寸前となる。そこにさらなる不幸が重なった。戦闘中、軍の総帥が銃弾に倒れ死亡してしまったのだ。指揮官を失った傭兵軍団は制御不能状態となり、二万人の兵が一斉にローマになだれ込んだ。「ローマには金がある!富がある!」

これが「ローマ劫略(サッコ・ディ・ローマ)」と呼ばれる出来事である。血と金に飢えた傭兵たちが8日間にわたって殺戮と略奪と破壊の限りを尽くした。これほど徹底した破壊は、西ローマ帝国崩壊時の蛮族侵入以来となる。そして追い打ちをかけるようにペストが襲ってきた。

ローマの人口は9万人から3万人に減った。ルネサンス様式の芸術品と建物は破壊され、殺戮を免れた芸術家はローマを去った。これによりルネサンスは終焉を迎える。

マキャヴェッリは、この事件の記録を残していない。彼が徹底的に批判した傭兵と外国軍による惨劇をどのように見ていたのだろうか。

マキャヴェッリが夢見たこと

『君主論』は、マキャヴェッリが政変によって蟄居の身となった時期に、当時のフィレンツェを支配していたメディチ家当主に献上するために書かれたものだ。狙いは再び官僚として採用してもらうためであった。だから、この時代の君主にとって何が求められるのかが書かれているのである。そして、私はあなたのブレーンとしてお役に立てますよ、その知識と技術を持っていますよと言いたかったのだ。残念ながら、就活には失敗したようだが。

『君主論』で示されているのは、彼が思う理想の君主像などではない。時代を超越した君主としての「力=徳」のようなものではなく、今、この時代に、この現実を前にして、どのような行動が必要かを説くものであった。

彼が心から望んでいたのは祖国フィレンツェの平和。本来共和政信奉者のマキャヴェッリにとっては、自主自立したフィレンツェ市民が自分たちの力で祖国を守り、自由を謳歌する姿を夢見ていたのかもしれない。だがその理想は、現実の前には封印されなければならなかった。強大な王権によって統治された列強国家群に対抗するには、イタリア全体がまとまり、力を持った君主が率いる国民軍によって守られなければならないと考えた。だから『君主論』では、フィレンツェ黄金時代に小国家間で勢力均衡策を取ったロレンツォ・イル・マニーフィコではなく、謀略によってロマーニャの統一を図ったチェーザレ・ボルジアに、今求められる君主像を見たのだ。

最後に、マキャヴェッリが運命をどのように捉えていたのかを引用してみたい。ここに、神を信じながら真理を探究するルネサンス人に共通する精神が見えた気がする。

もともとこの世のことは、運命と神の支配にまかされているのであって、たとえ人間がどんなに思慮を働かせても、この世の進路をなおすことはできない。(中略)
しかしながら、われわれ人間の自由意志は奪われてはならないもので、かりに運命が人間活動の半分を、思いのままに裁定しえたとしても、少なくともあと半分か、半分近くは、運命がわれわれの支配にまかせてくれているとみるのが本当だと、わたしは考えている。

マキアヴェリ『君主論』中公文庫

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