「好き/嫌い」より「好き/分からない」でいたい

自分は櫻坂46のファンだ。
櫻坂46はアイドルグループだ。
だから、自分はアイドルグループのファンということになる。

こんな当たり前すぎることを思う時、
「アイドルが嫌い」と思っていた頃の記憶もよぎる。

とあるアイドルグループが、
いつでもどこでも話題になっているといっても過言ではなかった頃。

アイドルを嫌っていた。
そのグループに限らず「アイドル」という
カテゴリーを丸ごと嫌っていた。

そのグループは今も詳しくはないけれど、
かつてのような負の感情はない。

でも、昔持っていた嫌悪感に近い
「負の感情」もはっきり覚えている。

なぜそんな負の感情を持っていたのか。
そのはっきりとした理由は覚えていないけれど…。

CDの売り方が気に食わない、、
無理やりに布教してくる友達が鬱陶しい、、、
音楽を作る人こそかっこいいと思う、、、、、。
それっぽいものはいくつも思い当たる。

なんなら、それらの気持ちは今もないことはない。
ないことはないけれども、アイドルというだけで嫌うこともない。

どうしてだろう。

考えてもはっきりとした答えは出ない。
なんなら別に出す必要もないけれども、
ぼんやりと思うことがある。

それは、よく分からないものを
「嫌いということにした」のかなということ。

今振り返ると、テレビやラジオなどで
受け身に流れてくること以外に、
アイドルのことは何も知らなかった。
それでも、周りはその話しばかりしていることもあるし、熱狂的に好きな人もいた。

そんな中で「嫌い」というラベルを貼って
知らない自分を正当化していたような
むしろ知らないでいいんだとすら感じていたような。

ほとんど何も知らなかった「アイドル」に限らず
最も心を動かされる「音楽」を紡ぐ人たちにも
そんなラベルを貼っていたような気がする。

このジャンルは好き、
でもこのジャンルはこう見えるから嫌い。
このバンドは好き、
でもこのバンドはこんな感じがするから嫌い。

そう決めてしまえば、もう考えなくて済むから。
そうラベルを貼ってしまえば、自分の中で切り捨てていい存在になるから。

そうやって知らないことを正当化して、
どれほどの出会いを失ったのか。

切り捨ててきたものの中にあったかもしれない、
かけがえのない瞬間をどれほど見逃してきたのか。
それを想うと本当にやるせない気持ちになる。

だからある時こう決意した。
「好き/嫌い」を決めつけるのではなく、
「好き/分からない」と捉えようと。

「嫌い」というラベルを貼り拒絶するのではなく、
「分からない」、さらには「分かるかもしれない」と捉えて、心の余白を作ろうと。

そう思うようになってから、
知らないこと、分からないこと「だからこそ」興味を持てることも増えた。

自分が知らないことでも、それを好きな人の話しを聞き、心動かされて「好き」という感情を持つことも増えた。

そうはいっても物事や人の好みはあるから、
「好き」までは思えないこともある。
そんなことも、嫌うのではなく「分からない」のままでいようと思う。

それを好きな人がいるということは、
どこかに心動かされるポイントがあるはず。

そして、そんなポイントを知った・感じられるようになった未来の自分が「好き」になるかもしれないから。

未知の出来事だけではなく、
今好きだと思っている物事・人たちにも言える。

どんな物事も、どんな人たちも
時間と共に変化していく。
そして、もしかすると次第に
「今の好き」から離れていくように感じるかもしれない。

その時「嫌い」とすぐ決めてしまうのではなく、
今はまだ「分からない」けれど、
変化したものにも「新しい好き」があるかもしれないと、そんな気持ちを持っていたい。

そして「分からない」が続いて、
もし負の感情、ネガティブな言葉しか
思い浮かばなくなってきたら、
そっとその物事・人たちから離れたいと思う。


………アイドルの話しからだいぶ脱線してしまった。

noteではこんな綺麗事を言いつつも、
日常ではすぐに好きだ嫌いだと決めつけたくなってしまう。
自分の知っているものに照らして、経験に頼ってしまえば楽だから。

そんな決めつけの楽さに抗いたい。
かけがえのないものを見逃したくない。

はからずも、自分にとって大きな戒めとしてのnoteになった気がするなあ。
そんな気持ちを再認識したところで、この文章を閉じる。






そういえば2023年初のnoteでした。
櫻坂46もいよいよ次のシングルが発売されるな、
明日MV公開だな、なんてことを考えているうちに、とりとめのない文章ができてしまいました。

櫻坂46は第二章に突入した、なんて意見を最近よく目にします。
様々な見え方の楽曲が増えてきたこと、フォーメーションの変化、そして1期生の卒業が続いたりと、変化があることは間違いありません。
そして、自分自身は「推しの卒業」や、今のグループが見せてくれるものに思うことがあり、捉え方が変わっている気がしています。

ただ、そもそも「第二章」と言うべき大きな区切りがグループにあるのか、仮にあるとしてもその区切りがなにによって起こったものなのか、私にはまだよくわかりません。
とにかく、これから目の当たりにできるものを期待して、自分のペースで楽しみたい。そんな気持ちでいっぱいです。

そして、好きな気持ちが続く限り、
かつて私の尊敬する方がおっしゃっていたように、
「点ではなく線で」グループのことを見ていけたらと思っています。


ここまでお読みいただいた方はいらっしゃるのでしょうか。
読んでくださった方には、今年もこれしか言えません。


今年もままどおる差し上げます。教えてね。