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実写版『耳をすませば』鬼才を気取る物語

純愛とはなんだろう。内容が薄ら寒い。
秋口の映画館を出てちょっと寒くなった東京の空の下、私は世間一般で純愛と認識されているものを純粋に見守れない自分になんとなく疲れてしまった。
耳をすませばが純愛の女子から絶賛されてるジブリ作品と知り天を仰いだ。
この先冷静かつ冷淡な内容が続くので、見たくない人はここで離脱をおすすめする。


映画を要約すると、
小説家を目指す雫と、チェリストを目指す聖司が中学生の時に恋に落ち、聖司は単身チェリストになるべくヨーロッパへ渡る。
10年後また再会しようという口約束と共に。
雫は小説家の夢を諦めきれず就職しながら執筆するも仕事も夢もうまくいかない。聖司とは明確な約束もないまま手紙のやりとりのみ。
聖司はCDデビュー等もし、着実にチェリストの道を歩む中、雫はブラック企業で夢も上手くいかず追い込まれ聖司に会いに行く。
圧倒的な聖司との居場所の差を感じ、モブキャラ女性にも邪魔され日本に逃げ帰る雫。
幼馴染の友人は結婚、追い詰められた雫だが、聖司が日本に帰国し、日本でチェリスト目指すわ結婚しよう!となりハッピーエンド

みたいな話である。


寒いポイント1
雫と聖司の根拠のない自信がぬるすぎる


まず雫
小説家を目指すくらいだから夢見がちなのはわかるが、何の確証もなく中学生のときのお互いの夢を叶えよう!みたいな決意を信じられるのがすごい。素晴らしい。
自分を好きだった幼馴染も結婚し、本格的に夢をとるか仕事ちゃんとやるか考えるべきなのに社会人としてもぬるすぎる。

夢に対しても叶える気あるのか?みたいなスタンスで、ダメな事に対する工夫やどうしても叶えたいという信念が見える描写がない。
「聖司くんと夢を追いかける」事が目的になり
手段が「小説を書く」にすり替わっている。
そして本人がそれを気付いてないところが更にぬるい。


聖司サイドの話をしよう。ヨーロッパ行った時点で(昔の話だし)結構に雫と聖司は生活格差のある家庭だ。両親は医者とのことで、まずヨーロッパ留学さえも揉めていたので今後階級差のかなりある結婚でうまくいく見込みは極めて低い。(しかもこれと言った恋愛期間を経ていないので)
キーパーソンの祖父頼りにしても寿命があるので厳しい。

且つ聖司は夢より最終的に雫をとり、日本に帰国した。が、日本で活動しようにもいかんせん中卒の肩書きしか残らない。
日本で活躍できる音楽家は正直藝大などを出ていてそこから留学や何やらで箔をつけた方々が多い。これは芸術の世界はコネクションも問われており、「知り合いの音楽家と共演、客演」が未だに主流だからだ。音楽に限らず、ミュージカルやバレエでもそうである。
つまり「中卒の何処の馬の骨ともわからんチェリスト」に肩書きとしては終始するのだ。

そしてチェリスト設定。
申し訳ないけどチェロ1つで曲を聴かせる事はこれの舞台となった時代では厳しいだろうし、未だに弦楽器のデュオが主流だろう。
チェロメインの場などなかなかない。
中卒で謎の武者修行をしてきたチェリストに、日本で活躍の場が与えられるとは到底思えない。まだ日本はそこまで芸術に優しくない。
「日本でもできる事がある」はコンクールなどでも実績を積んだ上での言葉であり、現実はそんなに甘くはない。
これはシンプルに考えが甘い、ぬるすぎる。

そしていきなり結婚いうても、
何の恋愛期間もなく、かたやブラック企業勤務、かたや中卒チェリスト。
過ごしてきた場所さえ異なる。
お互いの生活もままならないまま恋愛はできるのか?

否。私は共倒れし離婚が妥当解だと思った。
生活力はお互いあるにしろ、恋愛はお互いの心の余裕のある時にしかできない。お互い余裕がないなか進む恋愛は恋愛ではなく「依存」だ。
「かわらない夢を信じる姿」にお互い恋している。
雫ははっきり意思表示をしないタイプで溜め込み型、聖司は逆になんでも言ってしまうタイプ、この2人が「手紙だけで心は繋がってました♡だから結婚しても大丈夫♡」なんて事にはならんだろう。

10年、しかも大人の10年ではなく一番多感な思春期の10年をいきなり再会は最早知っている人ではない。知らない人だ。

この恋愛と仕事の覚束なさを抱えたまま結婚に踏み切れる/受け入れられる根拠のない自信がぬるすぎるのである。
純愛といえば純愛なのだろうが、
結構残酷な夢叶わない会社しんどいシーンがありながらハッピーエンドにしちゃうところが正直気味悪いのである。



寒いポイント2
何回も雫が歌わされる。アニメならまだしも特に歌も上手くない清野菜名が歌わされるのはこちらが結構共感生羞恥を感じてしまう

これはジブリのアニメをきちんと観たわけではないが、事前に調べた内容ではキーワードとなるのは「カントリーロード」、それが今回「翼をください」。
パッと思い返しただけでも歌詞結構違うけど話の内容からずれないの?と一抹の不安がよぎったが席についた。そして案の定この不安は的中した。

幼き雫と聖司が合奏しているのはまだいい。
しかし清野菜名が昔の雫を彷彿させる赤いダッフルを着て10年ぶりに再会し翼をくださいを歌うのはいささかチンケすぎる。
そして歌がそこまで上手くないのもあり、松坂桃李のチェロの弾き真似も相まってただただ恥ずかしい。

そして翼をくださいは本当に未来志向な歌だが
本来のカントリーロードは昔を彷彿させる曲で雫と聖司の関係性を取り戻していく過程を描くにはこっちの方がよかったのでは?と思う。

そして何より、最終的に歌っている歌手が杏。
超純愛映画を杏にぶつけてくるあたり、
どんな気持ちで彼女は歌ったんだろうと頭を抱えてしまう。
歌手ではあるものの、本業はモデルだしもう少し配慮のあるキャスティングは出来なかったのであろうか…とも思った


寒いポイント3
そもそも雫は小説書きたかったのか?問題

ここで物語の根本を揺るがす話をするのだが、
「そもそも雫は小説が書きたかったのだろうか」という問題が浮上する。
本が好き→小説家になりたい!
はいささか短絡的な発想だ。そもそも昔から雫は意見がはっきり言えるタイプではないように描写はれている。(告白されたシーン等もしっかり断れないし、夢に対しても言い淀むシーンがある)
当時他人と違う聖司に憧れ、「自分も聖司くんみたいに夢を持ちたい」と周りと違う特別な存在になりたかったんだろう。
そうした厨二病の発想がそのまま大人になり、夢に対し能動的に動き出す描写も行動もない。受動的な毎日、ブラック企業での消耗。昔からの友人とのシェアハウス、交友関係。
何も自ら動き出す姿勢が見えてこないのだ。
恋愛だって、聖司不在の間に何もしていない。そんな引き出しが何もない状態の人間に、新たな発想も生まれなければヒットが打てる作品を書けるわけもない。
エモーショナルな部分に優れているわけでもなく、小説の題材を探しに自ら行動するわけでもない雫は聖司のような特別な存在と思い込みたかったから小説家と言い出し、引っ込みがつかなくなってしまった。
雫は本当に小説が書きたかったのだろうか…

寒いポイント4
雫が恋愛弱者なのにクロージングかけにいく姿が結構きつい

雫は正直恋愛弱者だ。恋愛に対し甲乙つけるのはナンセンスだが、好きな人との関係は中学生で止まっておりその後まともな恋愛関係は築いていない。前述のように正直こんな人生が薄っぺらいタイプに小説なんか書けるわけがないのだが、恋愛で結論を出しにいこうとクロージングをかけにいく。これが素晴らしく痛い。
雫は映画を通して「赤」を着用しているが、
ヨーロッパにも赤のダッフルで昔を彷彿とさせるようないでたちで向かう。
恋愛弱者なのに、雫なりにクロージングをかけたい様子がありありとわかる。

聖司と修羅場になっても、雫は思っている事をぜんぶ言えずに立ち去る。正直聖司以外だったら「めんどくせー女」で話はおわる。
どう考えても聖司の方が海外ナイズドされており、女慣れもしている。
ここで捨てられないから映画なのだがいささか強行突破すぎると思ったし、
この行動、語彙力のなさ、場の支配を出来ない点からも雫は今後も売れない作家を続けていくのだろうなと感じた。


純愛とはこんなものなのだろうか。
特筆すべき才能もない雫と、才能でギラついている聖司。こういう凸凹したカップルが結ばれるのが純愛なんだろうか。
私にはよくわからない。
映画は正解を見つけるものではないし、続編が必ずあるわけでもない。
でも平々凡々とした雫と、ヨーロッパでがむしゃらに叩き上げてきた聖司はあまり合わないだろうなと邪推してしまうのだ。

世の中で名作と呼び声高い耳をすませばだが、
名作とは迷作でもあると思った作品だった。

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