なぜ世の中からハラスメントがなくならないのか


結論

他人の考えてることなんて分からないから。

他人の考えてることが分かんないとはどういうことか

人は生まれ育った環境が違えば、そもそも持っている価値観が違う。そして、「今」存在している環境によって、どういった価値観に合わせないといけないかが変わる。

私はほとんどの人は、この点を正しく理解していないように思う。
自分が中心にあって、自分の持つ価値観に合わない人・空気の読めない人をただパターン分けして、〇〇ハラと呼称しているのではないかと思う例を散見する。そうした「自分とは合わない人」を挙げることで、良くも悪くもそういう人を身の回りから排除できる世の中になったのだと思う。

一般に、傷ついている人に対して周囲の人は寛容にならざるを得ないし、傷つけた側の人の肩を持とうものなら次は自分が次に排除される番がくる。多くの人は、優位に共感を得ている側の人の見方に反対できるほど強くない。

これはある意味、医療費をどれだけ使うのかという問題と近いように思う。患者やその家族は基本的に、自分のことしか見えないし、医療者もほとんど患者のことしか見えていない。一個一個の目の前の問題に対しては、当然最大限出来る限りのことをしたくなる。だからこそ、社会の何処かで基準を決める人(中医協)がいなければ社会は止めどなく医療費を使う方向に行ってしまう。

でもハラスメントに関しては、今の世の中にはその基準を決めるような機構はないし今後も出来ないだろう。そもそも、基準を言語化するのが非常に難しいし、とてつもないスピードで社会の中で変容していくのである。

そして、私が一番問題だと思っているのは社会の中で取り上げられるのは決まってインパクトのある個別の事象だということである。例えば、「若手に飲み会への参加を強要する。」という問題が存在したときに、単に「そういう時代じゃないから、若手への飲み会の参加を強要しない」という対症療法的な解決策をいちいち行っていても仕方ないのである。もちろん人が既に嫌がっていることをしないのは人として当たり前だが。このとき、問題の本質はもっと別の深いところにあるのであって、なぜそういった形で問題が社会に表出してきたのかをちゃんと時間をかけて議論するべきなのである。例えば、私ならこの問題を聞いたときに次のように考える。「飲み会自体が嫌いなのではないか」、「上の世代の高圧的な態度が気に入らないのではないか」、「上の世代と比べ、飲んで騒ぐ以外の余暇の使い方の選択肢が増えた結果、飲み会自体の優先度が想定的に下がったのではないか」、「上の世代と飲むと、気をつかったり、盛り上げさせられたりするのが嫌なのではないか」、「そもそも、強要されているように感じたのはなぜなのか」、「事前の告知なしに、予定があると断っても執拗に誘われたのではないか」。というように色々な可能性が考えられる。そういった観点で物事をみれば自ずと、対策が見えてくるし上の世代の人もなぜその対策を講じなければいけないのか、納得感をもって実行できる。そうして自分で考えて行動できるようになれば、他の事例について未然に防ぎうるかもしれない。
結局のところ、モラルのない人は、個別の事象で注意してもまた別のことをいずれやらかすし、現状の逆にモラル意識の高い人が色々意識しすぎて生きづらくなっている今の世の中は変えていかないといけないと思う。


つまりどうすりゃいいのか

お互いの考えていることをぶつけあい、修正し合うしかないのだ。
これはある意味、ソフトウェア開発と近い。バグをゼロにすることはできないし、もしバグをゼロにしたかったら、ソフトウェア開発自体をしなければいいのだがそういう訳にいかない。だからこそ、よりマシなクソを目指して使う人と作っている人が一緒に作り上げていくしかないのだ。

そして、自分の価値観が中心にあると思っていてはいけない。どういう価値観が進んでいるとか、劣っているとかそういうことを思う人は、自己中心的である。田舎であろうと、都会であろうと、若者であろうと、年寄りであろうと、常に相手の心に寄り添う。どうしても無理なら諦めるけど、ちゃんと努力はする。そういう世の中にしたい。


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