ご機嫌を取り続ける毎日(「ウィッチンケア」vol.11掲載)

 ここ最近、「ご機嫌を取る」ことを日々の最重要事項としている。

 誰の?

 親の? 上司の? パートナーの?

「ご機嫌を取る」と聞いて、みなさんは誰の顔を思い浮かべるだろう。

 わたしがご機嫌を取り続けている相手は、誰あろう、「自分」である。

 8年前、当時、自分が発行していた『hito(ヒト)』というリトルプレスで、随筆家の山本ふみこさんにインタビューをさせていただいたとき、「自分の機嫌が何より大事」というお話を伺った。

 そのときのインタビューの中から山本さんの言葉を抜粋すると、

「やっぱり機嫌がよくないと書けないのね。だから、ほんとに無理矢理にでもにこにこして書く」

「わたしたちは読んでくれたり、見てくれたりする人がいてなんぼという商売でしょう。見たことのない人に向かって書く気持ち。実は持ちようのない気持ちだったりするのだけれど。以前はあまり考えたことがなかったのだけど、読んでくださる方に対する気持ちって表れるんじゃないかな、って思ってね。

 機嫌ってね、最近、あまり重要視されないけれど大事なことなんじゃないかって思い始めて、まずはわたしが機嫌良くしていればみんなに波及していくんじゃないかなって」

 と、おっしゃっていた。

 それを伺った当時、「自分のご機嫌を取る」ってすごいことだ! 、と思った。そして、自分がご機嫌でいることは、周りの人たちのご機嫌にも及び、またそれがまわりから自分に及んでご機嫌になれたりするじゃないか、そして、それが世界中に及んだらほんとに素敵なことだ、と、いたく感動した。

 でも、その頃のわたしは、この言葉を十分にはまだ理解しきれていなかった。

 このお話を聞いても、自分のご機嫌は、自分以外の誰かにも取ってもらわないと、取り続けられない、と思っていた。

 そして、そう思っている間は、自分も、他人のご機嫌も取らないといけないとも思っていた。

 すると、いろんなことをいろんな人のせいにしてやさぐれたり、人の顔色を見ることばかりに疲れてしまい、その素敵な言葉はぼんやりと薄らぎ、いつからか、わたしの頭の片隅の奥の奥の方にすっかり追いやられていた。

 そんなわたしがその言葉を思い出すきっかけが、あるときあった。

 ある仕事の絵(本業はイラストレーターです)を描いていたとき、心穏やかな世界観を描かなければならないのに、そのときにどうにも嫌なできごとがあり、全然その絵を描くことができない。
 そうだ、そんなときは音楽だ! 心穏やかな音楽を聴くんだ! と思って、素敵なBGMをかけてみる。
 全っ然、入ってこない。
 そうなってくるとさらに「うわー」と焦って、ほんとになんにも描けなくなってしまった。
 締め切りが近づき、ほとほと困っているときに、わたしがメンターとして崇めるお一人から「あ、1度出しちゃうんです、嫌なほうを。嫌だ〜、っていう絵を先に描いちゃうといいんです」ということを教えていただく。

 なるほど。心の断捨離だな。心の中もいらない物が入ってたらいいものが入らないし、いいものが入ってないと出せない訳か!
 と解釈し、即実行。
 らくがき用紙に「こんな気持ちでこんなん描けるか〜」と立腹している自分の似顔絵をなぐり描く。
 何枚も描く。
 果たして結果はどうだったのか。
 見事に穏やかな心を取り戻し、素敵な絵(自分で言うのか)を期限内に納品することができました。

 これを機に、「あ〜、ほんと、自分のご機嫌って大事」と痛感し、山本ふみこさんの言葉が「ばばーん」と思い出され、わたしの心の表舞台の真ん中に燦然と躍り出てきた訳です。しかも、「嫌な気持ちをいったん外に出してから心穏やかになるものを入れる」という、自分のご機嫌の取り方も手に入れた!

 てってれれってってー♪(ドラクエのレベルアップの音)

 わたしは今まで、自分のご機嫌を取ろうとして、「ご褒美、ご褒美」と、好きなものを食べたり、愛でたりしていた。でも、嫌なものが入ったままだったので、心にそれらを納めるスペースが圧倒的に少なかったのだと思う。だから、摂取しても摂取しても自分の中に定着していなかった。
 それまでも「嫌な気持ちをいったん出す」に類似することはしていた。
「人に話して、聞いてもらう」である。
 これもかなり気持ちが鎮まるけれど、これに関しては聞いてくれる人の心持ちや「聞くスキル」が大いに影響するし、聞き流せない人にとっては相当なストレスだ。
 そこが、以前までの自分が、自分のご機嫌を他人に任せて失敗していた部分である。どんな反応が返ってきても、「自分の嫌な気持ちを外に出す」という行為に及ばせてもらえることで感謝できていればよかったのだろうけど、それどころか「話さなきゃよかったよ」と思うことしばしばであった。

 ただ、実際に対人関係で何かあったとき、「その当事者にひとまず伝える」は、今でも大事だと思っている。伝えることで、自分の気持ちや要望を理解してもらえたり、自分の思い違いを知って改めることができたりする。だから、その相手と何か気まずいことがあったあとも関係性を続けていきたいと考えているときはそうしている。また逆に、誰かになんらかの苦言や文句を言われたときは、わたしとの関係性を続けるための、この人の要望なんだと思って聞かないといけないなと思っている。
 でも、もう関わらなくていいと考えている相手だったり、関わりを続けたいと考えていても、どうにも自分の心身が疲れていると、伝えないし、受け止められない。

 なので、今までいろんなわたしの話を聞いてきてくれた、たくさんの聞き上手な人たちには感謝しかないし、迷惑かけちゃったなと思う人もいる。
 話を戻して。
 その出来事から「自分のご機嫌って自分で取れるじゃん」とやっとわかり、「自分のご機嫌取り」にハマった。
 そうして、自分のご機嫌に注意し始めると、いろんな自分の心に気づきはじめる。
「こんなこと思ってたんだな」とか、「自分はこういうことに傷つくんだな」とか、「こういうことで自分の機嫌が治るんだな」とか。
 そういうことがわかってくると、自分で自分を攻撃しなくなる。
 それまで、失敗したり、人に迷惑をかけたりしたときに、「なんでこんなことしたんだ」と自分を責めに責めていた。
「自分を責める」ということは、自分の機嫌をさらに損ね、そこからまたいろんなことがさらにうまくいかなくなるのが常だ。そして、下手すると、さらにそのせいでまた人に迷惑をかけてしまう。そして、自分を責める、の負のループ。そんなのほんとに無意味だ。
 だから、「やっちゃったな」「申し訳なかったな」「つらかったな」「恥ずかしかったな」という自分の気持ちを受け入れ、存分に紙に書き連ねたり、ことによっては相手に伝えたりして、「次はちゃんと気をつけよう」と、おいしいものを食べるのが、今のところ自分にとって一番いい。
 そしてさらに、自分のご機嫌に注意を向けはじめると、自分の心と言動や、作り出す作品の因果関係みたいなことにも気づく。
 気づきはじめると、自分の昔の作品や文章、人の作る作品や言動の中にその時の自分のありようが込められていることがわかってくる。
 ああ、このとき自分はこういう気持ちだったんだな、とか、この人は今はこういう気持ちなんだな、とか。
 機嫌は、無意識のうちに言葉、動作、自分の作るもの、の端々に現れ、まわりにも影響するのだ。

 全くもって、先の山本ふみこさんがおっしゃっていたことそのままで、自分の作り出すものがたくさんの人の目に触れる、書く人、描く人、歌う人、デザインする人など、すべてのクリエイターのご機嫌(心)が反映するのだから、自分たちの責任はとてつもなく大きい、と思うようになった。
 反骨精神などの強いものが必要な媒体や、それを求める人たちもいるかもしれないけれど、わたしは心穏やかであたたかい気持ちになれるようなものが好きだ。
 だから、自分のためにも自分が届けたい誰かのためにも自分のご機嫌はちゃんと取ろう、と今は思っている。
 誰も自分のご機嫌など取ってはくれない。
 運よく誰かの機嫌が取れていたり、誰かに機嫌を取ってもらえていたりすることがあっても、それは、たまたまだったり、誰かの犠牲があったりするのだろう。
 自分の気持ちや、一番の要望をわかっていて、本当に自分を満足させることができるのは自分だけだ。
 だから、今日もわたしの最重要事項は、「自分のご機嫌取り」で、明日もこれからもそれを忘れない自分でいたいなと、8年前の山本ふみこさんとの出会いに感謝しながら、相当忘れっぽい自分を恐れつつ、今は思っている。

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多田洋一さんが編集・発行するインディーズ文芸創作誌「ウィッチンケア」vol.11(2021年1月発行)に寄稿した文章です。
多田さんに転載許可をいただき、ここに掲載しております。

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