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幸せってなんだろうね

 先日、華金だと言って学生時代の友人たちと飲んでいた。まぁ、青春の1ページである。仕事のこと、恋愛のことなどお互いの近況を話していたが、そこでこんな話になった。今、自分は幸せか?

 この問いに堂々と「はい」と答えられる人間はどれだけいるのだろうか。ちなみにそのときはその場にいた全員がNOと答えた。ただし私は半分YESであったが。

 私の現在の心の状態を説明しよう。どこかの記事で過去に言及したことがあったと思うが、私は主に大学受験〜大学生活において強いコンプレックスを抱えている。詳細は割愛するが、そのときに抱えてしまった心の闇が社会人になっても残り続けているのだ。いつまでも過去に囚われ続けていて恥ずかしいと思うが、持ち前のネガティブな性質も相まっていつまでも苦しみ続けている。だから心の片隅で常にこう思っているのだ。私は私である限り、一生幸せになどなれないと。

 でも一方で、社会人になってから自分は幸せだと思う瞬間が増えている。まず、私の教育係になった先輩は「やさしい」なんて生ぬるい言葉で表現するのがもったいないくらい愛情深さのある人だった。他の職員もとても親切にしてくれたし、仕事内容や職場環境も私にとって喜びが多いものだった。月曜日が恋しいほど出勤するのが楽しみだったし、自分が周りから大事にされている分、自分も周りを大事にしようと思う、そんなささやかな幸せを知った日々だった。

 社会人2年目の現在、早くも異動を経験し最初は新たな人間関係に戸惑った。しかし、だんだんと関係を築くことができ、今では直属の先輩・上司みんなに可愛がってもらっている。前の職場や先輩が恋しい部分もないわけではないが、異動したからこその人間関係の広がりもあり、社会人1年目のときにはなかった新たな喜びも手に入れている。

 そんな話を友人にしたら、それは幸せじゃないか、一体何が不満なんだと言われた。だから私は自分の精神状態をに例えて説明した。私の心の核の部分には学生時代に抱えてしまったあらゆるコンプレックスや歪んだ自己愛、そして「私は私である限り、一生幸せになどなれない」という思いが蹲っている。しかし、社会人になって、そんな私を大事にしてくれる人たちが現れた。その人たちは私の暗い心をたっぷりの愛情でコーティングして、表面をピカピカに磨いてくれている。だから私の心は外から見たら幸せと愛情いっぱいなのである。でもその玉の奥深くでは、常に闇が蠢いているのだと。ただし、どんなに中心部に深い闇があったとしても、先輩たちからの愛情は本物だし、その幸せのコーティングは嘘偽りない本物の幸せなのだと説明した。

 社会人経験を長く積み、コーティングを厚く厚く塗り重ね続ければ、いつか中心部の闇は消えたり、認識できなくなるほど小さなものになったりするのだろうか。でも逆に、誰かに叩き割られたり、固い壁にぶつかったりして玉が粉々に割れてしまう日が来るのかもしれない。

 そんな話をしていたら、友人たちは笑ってこう言った。それだけ周りに大事にしてもらって認められてもいるんだから、それは幸せなんだよ。そこまでで思考を止めておけ。真ん中の闇はもう覗くなと。あなたは考えすぎだから、そんなことを考えなくてもいいように、早く新しい趣味や彼氏でも作りなよと。

 ところで、恋人を作ったら幸せになれるのだろうか。確かに私のコンプレックスの1つには、青春時代を全て女性だけの環境で過ごしているというのもある。(ただし、交際経験がないことがコンプレックスというわけではない)だから、異性ときちんと関係を築くことができれば少しはコンプレックスが軽減される可能性はある。しかし、恋人に幸せにしてもらおうだなんて人生はそんな甘くないことも理解しているつもりだ。自分を幸せにできるのは結局自分だけで、私が私である以上は……(以下、いつもの思考に逆戻り)

 そんな私を「考えすぎ」だと笑う友人たちだが、友人たちも今の自分を幸せだとは思えないと言っている。だから、幸せに見えて実は心に闇を抱えているのは私だけでなく、みんなそうなのではないだろうか?友人は「みんなそうだけど、深さの程度は人それぞれで、あなたの深さは尋常じゃないよ」と言うが、本当のところは分からない。この記事を読んでいるあなたは、自分のことを幸せだと思いますか?

 最後に。私の心を愛情でコーティングして磨いてくれているのは、職場の人たちだけでなく、そんな私の話を聞いてくれる友人たちもだと思う。コンプレックスだらけの学生生活だったが、社会人になってからもこんな話ができる学生時代の友人たちがいるんだから、私の学生時代だって捨てたもんじゃない。コンプレックスに囚われすぎて目の前にある大事なものを見落とさないようにしたいものだ。

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