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藤子・F・不二雄

小学館版 『学習漫画人物館 藤子・F・不二雄』というタイトルの1997年10月10日初版第1刷発行、監修 藤子プロ、マンガ さいとう はるお、シナリオ 黒沢哲哉さんの21年前のマンガです。

副タイトルで子供の夢を描き続けた「ドラえもん」の作者となっており藤子・F・不二雄さんが主人公で藤子さんと繋がっている人物がその西端からその時に至るまでのヒストリーが描かれています。ご存じの方も多いですが最初はお二人で一つの名前でした。しかしあるタイミングでその一人安孫子素雄さんをA, 藤本弘さんをFとして『藤子不二雄Ⓐ』、『藤子・F・不二雄』さんに分けておられます。 

 同じくマンガに興味を持つ安孫子素雄さんが藤本さんの小学校に転校されてきてからの二人の付き合いが始まります。第二章で藤子不二雄が誕生します。当時すでに漫画家として確立されていた手塚治虫さんに会うべく直接の手紙を出して、実際数か月後に返事が来て兵庫県の手塚先生(当時24歳)の自宅まで訪問できることになり、その時の風景が描かれていますが、漫画化として安孫子、藤本さんが貴重な体験とマンガ家への意思を固められたことが描かれています。

 藤本さんは、学校卒業して工場へ就職するも手を大けがをしてから『漫画が描けなくなってしまう』と思い、仕事をやめて母の援助とともにマンガに専念してく生活を取られます。その後漫画家になるべく安孫子、藤本両氏は上京し、両国の安孫子氏の親せきの家に下宿されるところから東京生活が始まります。

藤本氏は結核を患いましたが、奇跡的に自力で直し二人はマンガにさらに専念していきます。売れない時代を経て、再度上京されていた手塚先生との交流も継続してかの有名な豊島区のトキワ荘に手塚先生を訪ね、引っ越しされた後に住まわせてもらい、今や有名となった漫画化の卵たちが次々と集まる漫画荘になっていきました。

当時は安孫子素雄、藤本弘、つのだじろう石ノ森章太郎赤塚不二夫寺田ひろお鈴木伸一森安なおやが、トキワ荘に集まるようになりました。お母さんも故郷高岡から呼び寄せ一緒に生活することになりました。

次のステップとしてアニメ会社:スタジオ・ゼロを作って次のステージが始まりました。そこでおばけのQ太郎が誕生します。その後パーマンも誕生して大成功を収めていきます。

さらにグローバルとなったドラえもんが1970年1月号小学1年生など6市で同時連載が始まりました。爆発したのは4年後のコミック第1巻が発売されてから大人も子供も読み、日本中にドラえもんの人気が広がり今は亡き藤本さん(1996年9月23日逝去)の後も人気は広がり今や世界中に広がり世界のアイドルとなっています。

ここで心に刺さった言葉は、『自分(藤本弘さん)はのび太でした。並外れて不器用で遅筆なぼくにとってこれだけ書き続けてこられた、書き続けさせてもらえたことは大変なことでした』という言葉で終わっています。

どうしても人生焦ったり、うまくいかない時があったり、光が見えない時がありますがスピードが遅くても確実に継続をしていくことでこのような大成功というか、扉が開いて、人生が切り開かれていくということを感じました。

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