言葉への恐怖が愛に変わった日
ひゃー。みなさんお元気ですか?
花粉の季節も終わったかと思うと今年は春が駆け足で
そりゃもう全速力〜ってくらい駆け足ですぎていきましたね。
もうすでに初夏なのではと思う今日このごろです。
今日は久多のお話ではなく、もえこと言葉のお話です。
(あれ。こないだももえこの話してたなあ。けど安心してください。もえこはまだ久多で楽しく暮らしてますよ。久多の話もそのうち!)
みなさん言葉はお好きですか?
あたしにとって言葉は好きだけどすごく怖い対象でした。
今日はそんなもえこの言葉への恐怖とそれを克服した話です。
(ちなみに超長文です・・・!ご了承をば。)
(ちなみにちなみに画像はある日のもえこの朝ごはんでタイトルとはなんの関係性もございませぬ!)
小学5年生のときに苦手だった読書感想文を克服した頃くらいから言葉が好きになりました。言葉そのものについて考えることも好きだったし、小学生から高校生までは問いが与えられてそれについて応えれば大人は褒めてくれたので単純なもえこは言葉が好きでした。
あと、どんなに嫌なことがあっても思考して言葉にして整理したらポジティブになれる幸せなやつだったのです!
物心ついたときから大学生3回生くらいまではそんな感じで言葉で悩むことはなく、まさか自分が話すのが怖くなる、言葉にするのが怖くなる日が来るとは思ってませんでした。
そう。またまた〜冗談ばっかりって思う人もいるかもしれないのですが、
かなりおしゃべりなもえこですが大学3回生頃からつい最近まで言葉に対してすごく恐怖を抱いてました。
きっかけはどんなにポジティブになろうとしてもなれなくて言いようのない悲しさと虚無感に大学3回生のときに襲われたことでした。
言葉にできてないから今となっては何がそんなにしんどかったのかわからないですし、ほんのささいな事がきっかけで悲しくなってその悲しさから抜け出す術を知らずに元気がなくなっていったような気がします。
わからないものほど怖いものはやっぱりないですね。
そんなこんなで理由がわからないままただただ悲しくて、生きる気力をなくしてたときがこのもえこにもほんの一瞬ありまして。
その時に「今まで思考して言語化してポジティブになってきたけど、感情って思考して言葉にした瞬間から別のものになっちゃうんだ。」ってことに気づきまして。
そしたら、今までたくさんたくさん感情を言葉にしてポジティブに生きてきた自分がすごく嘘つきに思えて、薄っぺらく思えてきたのです。
「あれ?どれが本当の自分の感情なんだろう?」とよくあるかもしれない問いを持ちはじめちゃって。
それがきっかけで言葉にして話すのがすごく苦手になりました。
そりゃそうですよね。
自分から出て来る言葉を嘘なんじゃないかな?って自分が一番疑ってて、見張っていたので。
(今思うと、小学生のときから得意だった言語化は気づきや学びを言葉にする力だったんだなあ。と。
自分の感情や感覚を言葉にする力は全くなかったから感じたことのアウトプットの仕方は知らなかったし、してこなかったなあ。と。)
ここでもえこは「(もえこにおいては)感情と思考は別物である。」という学びを得たわけですが、そしたら何を話せばいいかわからなくなりました。
(話はちょっと逸れるんですが、逆に言葉を失ったこのあたりから直感というか根拠や理由のない自分の感覚を選べるようになって、物事に対して好き嫌い、心地よい気持ち悪いという感覚がでてきたように思います。
ちなみにこれまた余談で、その半年後に久多に移住することを決めたわけですが、その時くらいからイベントとかで見知らぬ大人数が集う場に行くのがもう苦手で。言語化できない感覚で選択してるから話せないし、好き嫌いの感覚はなんとなくあるし、自分の言葉に対して疑心暗鬼だし。もう人見知りがすごかったです。今でもわりと引きずってますが。笑)
あともう一つ自分の言葉に対して恐怖を抱いていた理由がありまして、これは22才くらいのときから思い始めたんですがなんか物事に対してあーだこーだ言ってる自分って何様なんだろうって思いが芽生えてきたのです。
批判的なときもあればそうじゃないときもあるんですが、
「なんでこう感じたんだろう?」とか、
「なんであのとき全体がこういうリアクションとったんだろう?」とか、
「なんであの人こういう表現をしたんだろう?」とか
そういったことを分析して言語化するのがわりと好きなのですが、そんなことをしてる自分がなんだかおこがましく思えて。
全部知ってるわけじゃないのに何様なんだろうなあ。って思うようになりまして。
そんなこんなで、言葉にして表現することに恐怖と苦手意識がここ5年程ありまして。でも言葉が好きなのは変わらないから、ああ言葉で表現したいなあ。この感覚的に生きれるようになった今、また言葉にできるようになったら最高に楽しいだろうなあ。とずっと思ってまして。
でね、そう思いながらのんびりぽやぽや過ごしてたある日遂にタイトル通り言葉への恐怖が愛?に変わったのです!
(いやー、長い前置きだったー!笑)
それは創作会っていう、生きる上で表現することって大切なんだよ。なんでもいいから表現しながら生きていこうぜ!っていうコンセプトのもと(と、もえこは思っておりますが違ったらごめんなせい。)、創作会をやってる素敵な人たちが知り合いにいて、ずっといいなー行きたいなぁ。表現したいなぁ。って思ってたんですが、なかなか下山できず、、、
しかし、なんと今春の3月31日に久多で創作会を開催してくれまして!
もちろんもえこも参加しまして!
しかし、もえこの状況が状況な訳です。
言葉で表現したいけど、言葉が怖いわけです。
表現できるかな?って思ってたのですが、、、
なぜかその日は表現できまして!(なんでかは謎。参加者のあったかさに安心感があったのかな?)
たくさんの言葉が湧いてきたのですが、その中のひとつがあたしの言葉への恐怖を取り払ってくれてまして!
そのとき湧いた言葉っていうのが、
「 吐露された言葉は 後から私になる
紡ぎ出された言葉は 後から誰かになる 」
っていう言葉な訳でして。
わー。そうだよなー。って自分でめっちゃ納得して。笑
あたしが持ってた言葉への恐怖って結局自分で自分の言葉を判断してただけで。
自分の言葉が正しい/間違っているとか、良いこと言ってる、身の丈にあっているとか、たくさんのジャッジを自分の言葉に対してしていたからこその恐怖であって。
上の言葉を噛みしめたときに自分の言葉をジャッジして裁いてた自分がいなくなって。ああ、そうだよな、どんな言葉でも自分の軌跡だし、思考が入って入って自分から乖離して軌跡にはならない言葉でももしかしたら誰かのものになる言葉かもしれない。
そう思えたときに、自分の中から湧いてくる言葉をジャッジせずに受け止められるような気がしてきて。ただただ言葉は言葉として表現されただけで。
判断しようと思えば色んな面から色んな判断ができるんだけど、別に判断しなくてもいいわけで。
言葉にするって自分をつくっていくし、もしかしたら誰かのものになるかもしれない!ひゃー!素敵だ!ってなったわけでありまして。笑
(そう!もえこは単純なのです!笑)
そう。だからこうやって再びnoteを書きはじめてる訳です。
いやー、長かったなぁ。笑
言葉への恐怖を抱えてた期間もだけど今回の投稿が・・・!笑
もし、言葉に対して同じ様な恐怖を抱いたことある人いたら一緒に盛り上がりましょ!「いやー、自分で自分を見張ってダメ出ししてそりゃーしんどかったよねぇ!笑」って!笑
よーし!書ききったので今日はこれにて◎
ちなみに最近のもえこのテーマは自分の中の執着や恐怖を手放すことと、言葉以外の表現として舞いをはじめたいことです!笑
このnoteを読んでくれてるみなさま!また今度会うときはたくさんお話しましょうね。では楽しい毎日を〜◎
もえこ
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