見出し画像

「何者かになりたい」が「丸の内OLになりたい」だって良いじゃないか

この脈の続く限り、何にでもなれ。

それがたとえあなたの3年間をだめにするような災難に終わるとしても。

それがたとえ肝機能をやるほどに飲み回る羽目になった結果だったとしても。

それがたとえ、自分の周りをぐるっと描くひとかたまりの居住エリアに満足しようとしてなかろうと、そういう守るべきものを持つ未来がくるってことを受け入れることになるとしても。

何にでもなれる。でも、何にもなれない。

何もする気が起きない。

何もかもが白々しい。

ひどく美しいかと思えば無価値で、何もかもに意味があるようで、何にも意味なんてないんだと思う。

この感覚の原因は間違いなくこの治りおさまってくれない鬱と貧弱な体力にあるんだろうが、そもそも極端なほどにシニカルなわたしの冷笑主義は、ある意味既に鬱そのものを喰らい始めてるような感覚だ。

それは、こう。

いつも "奴" がじっとりとこちらを見ながら、わたしの心に棘が付くのを待っている。

その棘はいとも容易くくっついてくる。お昼のお肉がほんの少し胃にもたれたとか、隣の人のいびきがうるさいとか、電球の色が気に入らないとか、ブラの締め付けがきつくて呼吸が思うようにできないと感じる時ですら、棘は刺さる。ほとんど無限に。

そして、しばらくして "奴" がやってくる。細い棘のお尻にギュッとかぶさるみたいにして、冷たいスライム状のものが棘を覆う。わたしはそれで棘と一緒に心を冷やされ、いくぶん焦燥感やパニック発作がマシになり、呼吸をする隙間をもつことができる。その棘はとても柔らかくてすぐに抜いていけるんだけど、あまりにも量が多いものだから追いつかない。だからわたしは "奴" に頼る。

この世界って自由で希望だらけだけどさ、
この世界って自分がいなかったら世界ですらないんだよ。
わたしが死んだら悲しむ人がたくさんいるけど、わたしの人格を殺してもきっとだれも気付かないね。だけど、そうやって生きている人はきっと今日も立派だよね。
この世界って自由で希望だらけだからさ、
この世界からわたしという人格ごと引っこ抜いちゃおうよ。

鬱も、快楽も、愛も、涙も感じない、
労働のための装置になってみようよ。

ね、できないかな?
この世界って希望だらけなんだからさ。

わたしらしくいる、なんて、もうどこにもないよ。

世界をちゃんと見つめたら、自分なんてそもそもどこにもいないことに、いつか究極的には気付いちゃうんだから。

これが、冷たくて一番優しい "奴" の正体だよ。



健全な人間は、「世界は美しい」ということを、ある程度素直な目で見ることができていると思う。
それでも多かれ少なかれ、健全な人間たちも "自分の像" に畏れているように見える。


こうなりたかった自分、
あるいはいつのまにかなっていた自分、

忙しい日々の中でふと足を止めて覗き込んでくるその深淵に畏れを感じない人は、たぶんいない。


そういう意味ではわたしたちっていつでも未完で悲しい生き物で、でも、それに気付かないほうがマシ、というだけの話。



気付いちゃったらどうすればいいですかね?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?