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ダイヤモンドか、資格か

本棚の整理をしていたら、あちこちにエンピツで線の引かれた文庫本が出てきた。
宇野千代『行動することが生きることである 生き方についての343の知恵』 (集英社文庫)。
2017年の暮れ。書店で目についたタイトルを、思い詰めた気持ちで手に取った。

ご縁でライター系の仕事を受ける以外は、いわゆる専業主婦の私。概ね楽しく生きているが「このままでいいのだろうか自分」モードが、ときどきやって来る。その日も、そんな最中にいたのだろう。


文庫本カバーのプロフィールによると「愛欲の世界を描いて比類ない地位を確立」した宇野千代が、90歳を過ぎたころに書いたエッセイ。

年越しに帰省した夫の実家で読む本としては、いささか不適切なエッセイを一心不乱に読んだ。琴線に触れた言葉には線を引きながら。



その結果「比類なき」スキャンダラスな「行動」に走ったわけではない。
ワインの資格を取ろうと、一大決心をしたのであった。

ワインの資格。ここで言うのは、日本ソムリエ協会認定のワインエキスパート(試験内容はソムリエとほぼ同じで、実務経験がない人の資格の呼称)を取りたいと、ずっと思っていた。


 
20代、札幌の編集プロダクションで忙しく働いていたころから、その気持ちは芽生えていた。
週末になれば、溜め込んだ家事を片付けて、ワインと食材の買い出しに出かけ、料理に励む。
もっと手をかけた料理を作りたい。それにピッタリのワインを選べるようになりたい。いつか時間ができたら、と。

「私、ダイヤモンドよりも教養が欲しいのよ」。


宇野千代を読み、年が明けた2018年、ちょうど結婚生活10年目だった。
ダイヤを買ってあげると夫から言われたわけではないが、ひとり息子は幼稚園に慣れ、私の時間はそれなりにある。いましかない。


 
ワインの資格取得に一大決心を要したのは、時間の問題だけでなく、おそらく“イメージの壁”のせい。
 
お金かかるんじゃない? 
取ってどうするの? ワインの仕事したいの? 
仕事にしないなら、何のために取るの? 
スクールと資格にかかるお金を、美味しいワインの購入にあてたほうが良くない?
 

でも考えてみると、すべて人から言われた意見である。


「好きなことを深く知りたい」「せっかく味わうなら知って楽しみたい」。
私の一途な思いは、ただそれだけ。
その先に何があるかわからないが、温め続けた思いを、なぜ止めることができようか。
宇野千代に背中を押され、心は決まった。



かくして、前年に在宅稼業で得た資金をワインスクールに振り込んだ。

 スクールに通わず独学で取得する人もいるが、私のワイン経験ではハードルが高すぎる。

実際、スクールで人生初のティスティングをしたとき「ワインについて少しは知っている」という思い込みが、みごとに吹っ飛んだ。



香りの良い白ワインが、目の前にある。はて、この香りを何と表現したら良いのだろう。
それまでは「芳醇な花の香り」がしますとお店の人に言われると、「芳醇な花の香り」がした。
柑橘と言われると柑橘、ミネラル豊かと言われたら、海のイメージが広がった。
 
そう言われたから、そう感じていただけだった。
グラスを回し、覗き込み、鼻を近づけ、途方に暮れるばかり。



絶望的な白地図を少しずつ埋めていくように始まったワインの勉強は、想像以上に楽しかった。品種や味わいはもちろん、歴史や背景を知ることは、学生時代に学んだ美術史ともリンクする。

一連の勉強をして、筆記試験と実技(テイスティング)をクリアし、金色のブドウのバッジを手に入れ、思いがけず仕事も手に入れた。

デパートの売り場で派遣会社の社長に名刺を渡されたことをきっかけに、ワインの試飲販売を一年ほど経験することができた。時世により仕事が休みになると、また趣味で楽しもうという気持ちに戻っていたが、嬉しいチャンスが重なり、ライター業とワインがつながる機会を得られた。
 
初めてワインスクールの扉を押した日、驚いた。
「10万円の鞄を買うよりワインを学ぼう」というメッセージが扉に刻まれていたのだから。

ダイヤモンドより資格、という自分の気持ちと響き合った。扉の先にあった学びは、一生続けられるほど深かった。いや、10回生まれ変わっても学び切ることはできないかもしれない。そこに夢がある。

そして、ワインを軸に広がって行った、人との出会い。それは、金色のバッジよりもキラキラと輝いていた。

生活の必需品ではないが、豊かに暮らしを彩り、背景に物語がある。昔から好きになるのは、そういうものばかりで、その魅力を文章で伝えることができたら本当に嬉しいと思う。
99歳まで生きた宇野千代の、まだ半分も生きていない。ここから頑張ろう。文庫本を撫でながら、そう思った。

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