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虫愛ずる姫君を変態っていうなぁ!  ~彼女は仏教少女

他人をカジュアルに変態よばわりするのって
失礼じゃない?

10年近く前の『虫愛ずる姫君』の解説の多くで、
虫愛ずる姫君は変態あつかいされている。
ここで、いち虫好きガールから言っておきたい事がある。

虫愛ずる姫君を変態っていうなぁ!

虫愛ずる姫君が変態と言われている事は、
私を含め、全ての虫好き少女への侮蔑である。

未だに変態という解説を付けている出版社があるなら
今すぐ差し替えることをお勧めする。
これは言われなき差別である。

・最初に変態って言った奴は誰だ

彼女を変態呼ばわりした最初の人物は、おそらく山岸徳平である。
古典文学界では一角の文学者らしい。
その後の解説でも、しばしばこの山岸説が採用されるのだが、
その言い分を改めて読んでみると
これが全くトンチンカンなのである。
確かに姫君が当時としては変わり者である事は
否定できないとしてもだ。

”人はすべて、つくろふところあるはわろし」とて、眉さらに抜きたまはず。歯黒め、さらにうるさし、きたなしとて、つけたまはず、いと白らかに笑みつつ”
―訳
”「人はなんでもつくろう所があるのはよくない」として眉はぬかない。お歯黒はめんどうだし、汚らしいと言ってつけず、真っ白な歯で笑みながら“

という記述から、姫君は当時の化粧の定番、
眉を抜いて丸い眉を描く事も、
お歯黒もしていない事がわかる。

“からしや。眉はしも、かは虫だちためり さて、歯ぐきは皮のむけたるにやあらむ”
―訳
”「醜いよね、眉毛も毛虫みたい。」「歯茎は皮がむけてるみたい」”

と下女達から陰口を叩かれる姫君。
普通に考えれば、当時の定番の化粧をしない事に対する
悪口である。

どっこい、山岸徳平は
毛虫のような眉毛をもって多毛症だとか、
歯茎の皮がむけたようだという記述を文字通り受け取り、
貧血で歯茎から出血しているなどというトンデモ理論で、
「変態」―つまり精神異常で、
毛虫を性的に愛好する者 になった等と
のたまっているのである!!
(山岸徳平『堤中納言物語全註解』では、
「Fetisch」という言葉が使われている。)
こんなトンデモ理論を脚注につけた文学者は猛省してほしい。

それなのに、同時代の『十訓抄』や『古事談』に出てくる
「蜂飼い大臣」藤原宗輔に関しては、普通の虫好き少年として
とくに問題にもしないのである!


人は女に生まれるのではない。女になるのだ。
(ボーヴォワール 『第二の性』)

社会が女の子は蝶や花のような美しい物を愛でるように
女の子を育てるのだ。

そんな社会的同調圧(ジェンダーバイアス)に
虫愛ずる姫君は真っ向から切り結ぶ。

かといって、現代的な科学的思考をもった生物学者、
リケジョのさきがけ、とまで言うのは、
現代に引き寄せて解釈しすぎだろうと筆者は考える。

・彼女は仏教少女!~漢詩もお経も読めちゃうぞ

これは右馬佐という物好きな男が、
蛇の作りものを袋に入れてよこしたシーンが
わかりやすい。

“「なもあみだ仏、なもあみだ仏」とて、生前の親ならむ。”
―訳
“「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といって、「生前の親かも知れない」”

言うまでもなく、南無阿弥陀仏は仏教で重視される経の一節である。
また、生前の親かも知れない、という言葉も
仏教の輪廻転生の思想をベースに出た言葉である。

この事を踏まえて改めて本文を読むと
彼女がいかに仏教に傾倒していたかが
見えてくると思う。

また彼女は、カタツムリを飼っていて、

”「かたつぶりの、つのの、あらそふや、なぞ」といふことを、うち誦じたまふ。”
―訳
「カタツムリの角同士が争うのはどうしたことか」と歌う。

これは白居易(唐の時代中期の詩人)の漢詩「対酒」の
一節を踏まえた歌である事は間違いない。
その上、彼女はなんと扇子に漢字の手習いをしているのである。
つまり彼女は漢詩や漢字で書かれた経が読めた可能性が非常に高い。

:補足 白居易の「対酒」の一節は『荘子』の「蝸牛角上の争い」が
エピソードが元になっている。カタツムリの二つの触角の上に、
それぞれ国があり、その国同士が戦争をしたという寓話。
ちっぽけな事で争う事。

・姫君「色と空」を語る

姫君が仏教に傾倒している事を踏まえると、

“人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。
人は、まことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ”
―訳
“人々が花や蝶を愛ずることこそ、浅はかでおかしい事だ
人は誠実に本来の在り方を追求してこそ、心のありようが
奥深いというものだ”

という引用における本地という言葉ーここでは「本来の在り方
と訳したが、それも仏教みを帯びてくる。

また姫君はこうも言っている。

きぬとて、人々の着るも、蚕のまだ羽つかぬにし出だし、蝶になりぬれば、いともそでにて、あだになりぬるをや
―訳
絹だって人々が着る物もカイコがまだ羽の生えないうちに出し、蝶になれば、それこそ袖にもされない。」

姫君に言わせれば、花や蝶は「色」=(目に見える現象)本地ではない
花は枯れ、蝶となったカイコが、用済みになる事を
「浅はかで空虚なこと」=「空」であるとし、
それこそが、本地ー本来の万物の在り方
と述べているのではないだろうか。

:補足 当時の漢和辞典『和名類聚抄』では、
カイコの成虫のみを「蛾」とよび、
その他のチョウの仲間は「蝶」であったと考えてよい。
なお、現在では生物学的にはガとチョウの区別はない事になっている。
つまり、日本人はチョウとガをなんとなく雰囲気で区別してるに過ぎない。

・姫君「因果」を読み解く

よろづのことどもをたづねて、末を見ればこそ、事はゆゑあれ。
―訳
万物を追求して、その末を見てこそ、様々な事に理由があるのだ。

仏教では、全ての行動は「因」となり、
その結末は「果」として現れると考える。

姫君は様々な事を観察し、その行く末「果」
見届ける事で、その理由―「因」を知る事ができる
という訳だ。

あらゆる行動は「果」として現れる。
だからこそ、日頃の行いを善く心がける。
そうすれば、来世かあるいは早ければ現世で
よい「果」が得られる―というのが、
仏教の一つの教えである。

・姫君はかくかたりき「この世は夢幻」

“思ひとけば、ものなむ恥づかしからぬ。人は夢幻のやうなる世に、誰かとまりて、悪しきことをも見、善きをも見思ふべき”
―訳
“理解してしまえば、どんなことも恥ずかしくはない。人間夢か幻のような世に、生きている。だれが、永遠にとどまって、悪い事も善いい事も見て判断ができるものか”

これは右馬佐に姿を見られた事で騒ぎ立てる屋敷の者たちへ
姫君が言い放った言葉である。

しかし、この時代、成人女性は主に男性と合う時には
御簾ごしか、几帳越し、
近くにいる時は顔を扇で隠す。
男性の前で軽々しく顔を見られるのは、はしたないとされた。

それは姫君も心得ていたらしく、こう述べている。

”鬼と女とは、人に見えぬぞよき”
―訳
”「鬼と女とは人から見られない方が良い」”

なので、「恥ずかしくない」というのは、
ひょっとしたら、開き直りか、強がりだった可能性は
否定しきれない所である。

・恋の予感は二巻へ続く?

さて、くりかえしになるが、この時代、
貴族の成人男女がお互いの姿を見ることはとても
で困難な事であった。

男女が共に生活する子供時代は12才くらいまでで、
成人の儀(女性は「裳着(もぎ)」男性は「初冠(ういこうぶり)」)を
迎えると気軽に男女が顔を合わせることはなくなる。

では、恋のきっかけをどこで作るのか?

都での噂。
恋文を送り、その返歌で人となりを想像する。
そして、究極には、垣間見=覗き見するのである。
これはもっぱら男の側のアプローチである。

女装までして、毛虫を餌に見事姫君を見ることに成功した右馬佐は、
わざわざ姫君の姿を見た旨の歌を送る。

そう、もう右馬佐は、興味本位であれ、
恋のアプローチを姫君に行っているのである。
もはや、次は夜這いであってもおかしくない。
返歌も忘れ、姫君の屋敷はどったんばったん大騒ぎである。
やっと我に返った下女の一人が名を訪ねる返歌を代筆すると、

烏毛虫にまぎるるまゆの毛の末にあたるばかりの人はなきかな
―訳
毛虫のような眉毛の毛の端に値する人なんていませんよ

と、気のなさげな返歌を残して笑いながら去っていく。

そして、物語の最後は「二の巻にあるべしー二の巻に続く」の言葉で
しめられる。
この一節こそ、この物語の真骨頂であると、筆者は思う。

二の巻は散逸してしまったのか?はたまた最初からないのか?
とにもかくにもこれほど、物語の行方をめぐって、
読者の心を揺さぶる一節はない。

・終わりに

この度は『堤中納言物語』に収録された短編『虫愛ずる姫君』の
姫君が、いかに仏教的思想を持っていたかに焦点をあてて
解説をしてきた。みなさんご納得いただけたであろうか。

それでもなお、この物語のキモは「変わり者の姫」にちがいない。
しかし、「変態」呼ばわりはあんまりだし、
女の子は虫が嫌いなはずだというジェンダーバイアスを
押し付けるのは、やめていただきたいものである。


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