【日記】生きるということ
先に述べると、今日の記事はあまり明るい話題ではないと思う。
そのため、心が元気じゃないなあとか悲しい気分になりたくないなあという人は、読むタイミングを少し見て、自衛してもらえるとありがたい。
昨夜、私は何の気なしにTwitterを見ていた。
別に何か「見よう」と見ていた訳ではなかった。
推し界隈や、好きなゲーム界隈の情報をのんびり眺めるためのアカウントをのぞいて居た。
その際に、ひどくショッキングな動画を見てしまった。
初めは、何かの映画かドラマの切り抜きかと思った。
暗い夜の闇の中、女子高校生?が二人、怖いと泣きながらしばらく話した後、建物のふちに後ろ向きに立って、そのまま、後ろに倒れて画角から消えて行った。
ツイートの本文には、「自◯配信」のハッシュタグがあった。
ショック過ぎて、そのままTwitterを閉じ、目を瞑った。
自分の心音がドキドキ聞こえるくらい、本当に驚いたし、衝撃を受けた。
そんなことが、できる世の中なのだと本当にショックだった。
これは、今だから冷静に言える話しなのだけれど、私自身ほんの束の間だけ、人生の真っ暗な部分を見つめたことがある。
念のためにいうと、今はありがたいことにそんなこともなく、のほほんと暮らしている。
ただあのとき、私は間違いなく人生で一番暗い場所にいて、「生きる」と「死ぬ」の狭間にいた。
うまく言語化できなくて、もどかしいのだけど、「死」というものはそんなに自分から遠いものではないのだなと感じることが、あった。
それと同時に、「恐怖」も覚えた。
もうどこか遠くへ行ってしまいたいなあと思う気持ちはあれど、その手段全てが、本能的な「恐怖」に直結していて、私にはどうしようもできなかった。
その一線を、ふらりと越えてしまったのが彼女たちなのだろうなと想像して、本当に居た堪れない気持ちになった。
どれだけ、怖かったことだろう。
あの一歩が、恐ろしかったことだろう。
現場を配信してまで、見せたかったのかとか、止めて欲しかったのだろうかとか、そういう一切合切を、ふらりと越えた結果があの動画だったのだろう。
見ている側がどう思うとか、自分の意思がどうとか、そういうものを彼女たちはひょいと越えてしまった。
ただ、私が見たのは本人たちの配信動画そのものではなく、「それ」を「録画」して「切り抜く加工」をした、「それをその場で見ていたうちの誰か」の生んだものだった。
何なら、その生み出された動画をコピーしたものだったかもしれない。
あまりにセンシティブで、どんどん通報されツイートが削除されたり、そういった動画を投稿した人のアカウント自体がどんどん凍結されていたようだったから。
動画を切り抜き、果ては拡散までしている人に関しては、どういう意思でその行動に及んだのか、てんで理解できなくて余計に混乱した。
世の中の暗い部分が、一気に目の前に覆い被さってきたようなショックを久々に受けて、今こうして文章にするにしても、言葉を選ぶのに苦労している。
「高校生」は、私にとってあまりに近すぎた。
他の年齢ならいいとか、そういう話しではもちろんない。
ただ、高校生がそういう選択を取る悲しさだけは、よく、よくわかるつもりだ。もし、自分の担任を持っているクラスでそんなことがあったらと思うと、想像しようとしただけで涙が出そうになる。
まだ、16年やそこらしか、歩んでいない人生。
彼らの世界は、広いようで狭い。
何でもできるように見えて、まだまだ「未成年」と括られて、社会的な自由は制約されている。
守られているようで、世の中に抜き身で放り出されるようなことも、ある。
もう少し、生きていられたら、あるいは…。
これは生きている側のエゴになるのだろうけれど。
高校卒業まで生き抜けたら、その先はもう少し「自分」で取捨選択できる道も増える。
そのラインを越えられるように、手を引いて見守ってあげられる大人(この大人は、年齢的な大人だけを示すわけではない)がいなくてはいけない。
高校生は、刹那を生きる。
楽しいことをゲラゲラ笑って楽しんでいたと思いきや、10秒後には悲しくて泣いていたり、腹を立てて怒っていたりする。
私は、それを「できるだけ、ありのままを許容する大人でいたい」と奔走してきたタイプの人間ではあった。
綺麗事だとなじられてもいいし、ご都合主義と笑われても気にしなかった。
なぜなら、かつて自分も「高校生」だったからだ。
大人の「どこ」を見て尊敬し、軽蔑し、ずるいと思い、羨んできたか。かろうじて覚えているものを、忘れないように時々反芻しながら、それを行動指針にここまで生きてきた。
自分がかつて嫌だと思っていた大人にだけは、なるまいと肝に銘じて生きてきたつもりだ。世の中、そんな大人がもう少し増えたらいいのに…と思う。
ああ、本当に言葉にならないくらい、どうしようもない気持ちでいっぱいだ。
今この世の中に生きる、衝動的な「命」一つひとつに、「ただ抱きしめて、黙って一緒に泣いてあげられる人」が、一人でもいて欲しいと願わずにはいられない。
生きることは、大変なときもあるけど、それでもまあ悪くないかなぐらいのゆるさで、私に関わる人全てが、一日一度は腹のそこから笑えていますようにと、切に祈る。
本当にうまく言えなくて、すっかり書き散らかしてしまった。
今はただ、心の底から
刹那を駆け抜けて二人で遠くへ行ってしまった
彼女たちの安らかな時間を祈り
これをここまで読んでくれた「あなた」の夜が、
ただただあなたにとって優しくて、
あたたかいものでありますようにと、思う。
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