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【ショートショート】 夢見の電車

 私が彼女を見かけたのは、ある仕事終わりの電車の中だった。その日は寒い日で、私は仕事の疲れもあり、座席のヒーターの温もりにとろけながら座っていた。
 それなりに人がいる車内で、彼女は向かい側のドア付近に立っていた。特段代わり映えのしない、見慣れた日常の風景だったのだが、どうしても彼女に目がいってしまったのは、彼女が泣いていることに気がついたからだった。

 彼女は声を出さず静かに窓の外を見て、ただはらはらと泣いていた。時折そっと鼻をすすり、頬を手の甲で拭って、それ以外は赤いマフラーに顔を埋め、じっと静かに外を眺め続けていた。
 そっと周囲の様子を伺うも、彼女のことを気にかけていそうな人はいない。私はたまたま彼女がよく見える位置に座っていたから、その挙動を見て涙に気がつくことができた。彼女の涙に気がついているのはいま、恐らく私だけだと思うと、すぐに駆け寄って抱きしめてあげたくなった。

 何が、あったのだろう。何もわからないけれど、ドラマでも映画でも心が動くと、他の人に驚かれるくらいすぐに泣いてしまう私は、名前も知らない彼女の涙にもらい泣きをしそうになって、そっとその顔を見ないように視線を落とした。

 淡い茶色のコートの下から覗くのは、リクルートスーツだろうか。足元は黒いパンプスに、肩には四角くて黒いバッグをかけている…と見るからに就活生だろう装いをしている。就職活動にかなり苦労した私は、全て憶測の域を出ないながらも、彼女の涙に勝手にひどく同情した。
 そしてかつて、自分も同じように電車の中で泣いたことがあったな、と思い出す。

 あの当時、私の周囲にいた友人たちはみんな、それぞれ学生生活の中で何かしらの道を見つけ、そこを目指して就職活動を頑張っていた。別にサボっていたつもりも、逃げていたつもりもないけれど、夢も目標も見つけられていなかった私は、ふと気づくとポツンと一人で、残り少ないモラトリアムに置いてけぼりになっていた。
 それに気がついてから、慌ててがむしゃらに動いてみたものの、思ってもいないことを、さも本心かのように語る日々は本当に苦痛だったし、当たり前ながら結果へ結びつくことはなかった。

 返ってくることの無いボールを、一人で永遠に虚無へ向かって投げ続けているような、無意味で暗い時間に飲み込まれて過ごす…。そんな苦い日々を思い出して、そっと一人ため息をつく。

 みんな、どうやって自分の「進むべき道」を見つけるのだろう。好きなことを仕事にしない方がいいなんて言葉を聞いた気もするし、そうは言っても好きでもないことに、この先何年も関わり続けて働くなんて楽しくなさそうだし…。
 そんなことを考えながら行動と心が伴わないままの日々を過ごしているうちに、私は就職活動の波に大きく乗り遅れ、そして、ドロップアウトしてしまった。

 すっかり人生の迷子になり、途方に暮れていた私を支えてくれたのは他でもない、家族や友人たちだった。彼らはありがたいことに、私自身が立ち上がり、自力で動き出すまで静かに見守ってくれた。
 あの優しい時間があったから、私は自分を見つめ直し、夢を一つ見つけてその夢に繋がる場所で、今バイトから経験を積む道を選ぶことができている。

 そりゃあ正社員でバリバリ働いている同級生たちを見ていると、多少なり卑屈な気持ちになるのは嘘ではない。
 それでも挫折を経てなお、必要以上にひねくれることなく、夢を追う楽しさを味わえている今を、ありがたく思えているのもまた、嘘ではない。
 人生にはきっと人それぞれのタイミングがある。人とずれてしまうこともある、周りと同じようにいかないこともたくさんある。

 私は私のタイミングで、私の人生を選ぶことができたと今なら落ち着いていうことができる。

 そっと彼女の様子を伺う。まだ涙は止まっていない。ふと、自分が電車の中で泣いていたとき、そっとティッシュを差し出してくれたお姉さんがいたことを思い出した。

 あのときの恩を、今この子に返してあげられないだろうか。

 慌ててカバンの中を探る。イヤホン、鏡、リップクリーム、部屋の鍵、財布…雑多に物が入っているカバンをガサゴソと漁り、ハンドタオルとティッシュを見つけ出す。

 こういうとき、格好いいのはきっとハンドタオルなのだろうけれど、あいにく電車に乗る前、お手洗いに行ったせいでそれは湿っている。そんなものを貸すのは…と思い、ティッシュをそっと手に握る。ちょうど次が自分の降りる駅だ、これもまたいいタイミングだと自信を持って、私は席を立ち彼女に近づいた。

 「あの、これ使ってください」
 はっとした表情で、マフラーに埋めた顔をあげ彼女はこっちを向く──。


 …そこではたと、目が覚めた。

 何となく心地よい夢を見ていたような気がする。そっと電車内の案内を確認すると、ちょうど自宅の最寄駅が次だった。危ない、寝過ごすところだった。タイミングよく起きることができて良かったと思いながら、私は何年も使っているお気に入りの赤いマフラーを巻き直した。

 温度差で窓はすっかり曇っている。外は寒そうだ。ああ帰ったら、明日仕事で試してみたいと思っていることをまとめよう。その前にストーブを点けて、お風呂も沸かしてしまおう…。


(2133文字)


=自分用メモ=
人生は思っている以上に不思議なことが起こる。それに気がつくかつかないかは、間違いなくその人次第だろう。気づこうが忘れようが、こんな優しい不思議がたくさんあって欲しい。そして、人生はいろんなタイミングが交錯して成り立っている。そんなことを考えながら書いた。

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