5/6 市川真人「拝復 笙野頼子様」(ここまでが、「妨害」があったかどうかについての)

目次

0 はじめに
1 拝復 笙野頼子様 このたびは
2 一方、「教えるべきことは教える」という
3 学科も、執行部も
4 整理すると、以下のようになります
5 ここまでが、「妨害」があったかどうかについての
6 ずいぶん長くなってしまいました

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 ここまでが、「妨害」があったかどうかについての、ぼくの見解です。もちろん、A氏たちにはA氏たちの見方があり、自分たちの責任のもとで自分なりの主張をする権利があります。その意味で、ぼくは笙野さんが書いてくれたあの日の駅前のケンタッキーでのやりとりのときと同じ、「公平さ」をなにより大事なものと考えています
 しかしそれは、たんに「なんでもあり」ではないとも思っています。

 人間が感情の生き物である以上、ものごとは、百人いれば百通りの評価や感想が生まれます。そのうえで、共通項が生まれて議論や相互理解が可能になるよう、主観や感情を一定程度カッコに入れて(消せというのではなく、またいつそのカッコを外してもよい)なるべく純粋に思考や論理を抽出し、その先でもういちど個人の主観や感情で再評価してゆく……「近代」の成果とはそのような手続きかもしれませんし、柄谷行人「近代文学の終わり」をめぐって笙野さんとぼくがしたのは、まさにそのような共同作業だったと思っています。
 あの数日は、この二十年でぼくが手がけたなかでもいちばん困難で、そしていちばん成果のあった仕事のひとつではなかったかとすら思うほどでした
(もとが、笙野さんの感情が色濃く出ているテキストだったぶん、そこをいったん外してゆくのは笙野さんにとって苦しい作業だったはずですし、細かく提案するぼくも苦しかったし怖かった。原稿が成立した後で、それがもういちど笙野さんだけの手に――単行本で――戻ったとき、ある種の感情が戻りもしたでしょう。それでも、その一往復が「笙野頼子」という作家の仕事のなかでもなにか特異なものとして、笙野さんの記憶に残っているならば、そのことをうれしく思います)。

 そしてぼくは、テキストに対しても世界に対しても、いまなおそのときのスタンスを変えていないつもりです。変えていないからこそ、学生の「好きな企画」を並べていた「雑誌」や「授業」をもっとアツいものにしたかったし、事実確認や校閲を欠いて安直に他人に迷惑をかけたり、放任しすぎて学生自身を訴訟リスクに晒すようなことはすべきでないと思っています。

 だから、笙野さんの原稿が届いたとき、ぼくは正直いってある部分で安堵もしました。
 ぼくとK先生にとっては多々事実誤認があって迷惑極まりないし、学生たちのためにも真剣に対応を考える必要はありましたが、少なくとも2017年のハラスメント事案の当事者や関係者たちに不用意な迷惑をかけることはなかった
(※実際、3月12日に教員室に届いた「蒼生」で読んだ「文学とハラスメント」特集の冒頭の宣言文からは、今回のA氏たちの感じ方の出発点のひとつが、「プレジデントオンライン」の記事であることがわかります。大学の調査でも事実と認定されなかった箇所の多々あるその記事を、しかし彼らは検証や確認する手段のないまま、信じ込んだように読めました。その意味では、ぼくやK先生の危惧はたぶん間違っていなかったし、自分たちに対する誤解や誹謗と引き換えに、彼らをいつくらかは守れたようにも思っています)。
 そんな懸念を持ちつつも、さまざまなひとの安全を確保しながら企画を進める方法の検討を、何度も学科と学術院に提案してきたぼくの立場で言えば、掲載中止などはましてありえませんでした。編集者としては必要に応じた事実確認や修正要求を行い、批評家としては笙野さんに粛々と反論を書けばよい。そう考え、事実こうして書いています(立場においても年齢においてもぼくとは別であるK先生には、K先生の考え方がありますし、ぼくもそれを支持します)。

 ところが。
 笙野さんの原稿に書かれた「妨害」云々との関係では後日談ですが、このとき驚くべきことが起きました。
 原稿がゲラのかたちで学生からH主任とCCでK先生に届いたのが2月8日のお昼前でしたが、直後の学科会議で配布されたゲラをその場でわずか数分で読んだ何人かの専任教員たちが、口々に「これは作品として完成されているので、一字一句とて手を入れるべきではない」と言い出したのです。
 
 もちろん、「ある作品が完成されていて、これ以上手を入れることはできないし必要もない」ことは、作品の理想像としては存在します。しかし、逆に言えば、それが「作品として完成されている」かどうかの判断を、余人が容易にできるものではない。ましてやわずか数分の流し読みで「完成されている」などと、どんな基準と検討と論理の結果、口にされているのでしょうか。そんな態度は逆に、どちらにも真剣に向き合っていないという点で、作品にも作者にも媒体にも、このうえなく失礼ではないのか。その光景は、ぼくにはとてもショックでした。
 
 そのひとたちの振る舞いが、ある種の予定されたセレモニーであったとすれば、そのことはまだ理解ができます。笙野さんの原稿に対して、そこに書かれたぼくやK先生に文句を言わせないための(つまり、ぼくが掲載をなんとか阻止しようとするだろうという、まちがった想像力ゆえの)国会答弁さながらのお芝居。
 しかし、それこそが悪しき「文壇」であり「圧力」でしょう(笙野さんが戦ってきたものも、そういうものではなかったでしょうか)。本来なら「直させない」ためには逆に、公正な校正や校閲、作品内容や記述についての検討を著者とともに重ね、もはや直すべきところなどないという根拠や論理を明確にして「完成されている」ことを示すべきです(「批評」とはそういう行為です)。そうした過程をいっさいなしに、ただ「作品として完成している」と言い張るだけで「一字一句手を加えることはできない」と押し通そうとする、それこそが「文学と(いう名の)ハラスメント」ではないのか

 しばしば小説家と編集者の言い訳に使われる、「作品だからなにを書いてもいい」という主張には、ぼくは必ずしも賛成しません
 戦時中のように、明確に不当かつ大きな抑圧が生じたときには「表現の自由」がむろん戦いの口実や武器にはなるにせよ、差別や誹謗にかんしては、「書き手がフィクションだと思っていること」は、本質的な意味では(とりわけ今日では)十分な言い訳としては機能しないからです。書かれた側の感じる苦痛ももちろんですが、それ以上に、無数の読者が「フィクションだ」という著者の主張を知らなかったり理解しないで「事実」として(さきほど書いたような、「噂」の真実化と同じ仕方で)広めることができてしまう。それを「自分の責任ではない」と言うのは、テレビ局がしばしば「嘘はついていない」と苦しい言い訳をして無茶なヤラセをするのと同じことです。
  
 その一方で、「「双方、あるいは三方(学生側と教員側、そして著者)に全く異なる見解、争い」があり、それについて「事実確認」や「校閲」を、論系、あるいは教務でなすことはできない。論系で行えば明らかなアカデミック・ハラスメントとな」るという通達も学術院の執行部からはありました。これも、ぼくからみると驚きでした。
 そもそも、「異なる見解、争い」がある場合に、その存在や具体的内容を著者に示すことこそが、「校閲」という行為の大事なひとつです(一般に、「エンピツ」と呼ばれます)。エンピツの採否の判断は、原則として著者に委ねられ、強制力はありません(そのうえで、戻ってきたゲラに明らかな事実誤認の記述が残れば、編集権を持つ側にも掲載可否を判断する責任が生じます)。「事実確認」も、なにが事実かを調べるという意味だけでなく(そもそも客観的な「事実」の言語による特定が困難であることは自明です)、たとえば「一般的にはこういうことになっているがあえて違う記述であるのか(それとも単なる書き間違いや勘違いか)」とか「具体的な資料や証拠があれば添えた方がよいのでは」と提案することも校閲の仕事です。
「事実確認」や「校閲」の機能は、審判することではありません。ただ、著者や編集者が、知らずに間違いや争いに踏み込まないように、危ない箇所や不用意な箇所、明らかな事実誤認を指摘し、判断を促すことです。

 もちろん、多様なジャンルの専門的研究者たちで構成される2年交替の執行部が、自分たちの専門領域とは違う、特定の学科の教育内容に踏み込んだ判断を求められること自体が、酷なことだと思います(だから本来、執行部は学科の教育内容に踏み込むことに、ときに歯がゆいまでに慎重ですし、それは倫理的な自省なのだと思います。その意味で、なぜそのときこの「校閲」をめぐって執行部の見解が伝えられたのか、ぼくにはちょっと意外でした)。
 しかし他方、明らかにまちがっていることを「まちがっているよ」と指摘することや「これは違うのではないかと問うこと」を、「ハラスメントと言われるかも」と怯えてやめてしまうなら、どうやって「教育」をすればよいのでしょうか(もちろん、それが「ハラスメントの肯定」でなどないのは言うまでもありません。たんに、小学校の先生が1+1を2だと教えることを怯えて回避したとき、その教え子たちはどう育つのか、という話です)。

 ミシェル・フーコーなどの著作を読んでもわかるとおり、近代における「教育」には規律訓練の側面があります。もちろんそれがすべてではないし、教え子の感情的反発を生んだり無意味に傷つけるべきでもないから、フーコーたちの言い分も方法や是非は慎重に検討されるべきです。しかし「感情のために規律を捨てる」ことは、少なくとも近代の教育においては本末転倒です
 どれだけ天動説が好きな学生がいても、「そうですね、きみがそう思うなら、それでいいんじゃないですか」と言って終わっていたら、そのこと自体が「教育」の責任放棄です。もちろん、かつて天動説が地動説に駆逐されたように、「地動説が真に正しいか」も絶えず検討される必要があるかもしれないし、教育の研鑽のためには、そうした懐疑は重要です。その学生とは「天動説がなぜ好きなのか、そう考えることでどんな可能性が現れるのか、それを検証するためにはなにをしたらいいか」を一緒に考えたいと思う。しかし、それと同時に「現時点における学問での、暫定的な結論としてはこうである」と明確に示すことも不可欠です。それをしないのは、たんに学生に媚びることでしかない
 ひとりの学生に媚びることが深刻なのは、その学生をスポイルして誤った道に導くこと以上に、そのことが別の学生を裏切るからです。「本当の特集は何だったのでしょう」という記述ひとつとっても、デタラメな口実でそれを見逃すことが誰に媚び、しかし替わりに誰を傷つけるのか……そこで必要なものこそ、笙野さんのおっしゃる「公平さ」ではないでしょうか。
 世界には絶対的な「正しさ」などありはしない。「ハラスメント」のように感情が基盤となる議論においてはなおさらです。しかし、少なくとも、暫定的であることを明示しつつ暫定的に真と信じるものを示すことや、同時にそれを疑い続けることはできる。それはときに(笙野さんが、かつてぼくとしたと今回の原稿で書いてくれた)「物凄いやりとり」になることもあるけれど、誠実になされていれば、それは「公平」なものとして相手の、あるいは教え子たちの記憶に残るはずです。
 先の「校閲」のことにしても、そんなわけで、執行部から届いた通達は単純に「校閲」という行為がなんであるかの認識において間違っていました。それらが間違いであることは、研究者とプロの物書きが混じって運営しているぼくたちの学科なら、気づくひとが多数いておかしくなかった。けれど、ごく一部を除いて、そこに違和感を示すひとはいませんでした。

つづく