4/6 市川真人「拝復 笙野頼子様」(整理すると、以下のようになります)

目次

0 はじめに
1 拝復 笙野頼子様 このたびは
2 一方、「教えるべきことは教える」という
3 学科も、執行部も
4 整理すると、以下のようになります
5 ここまでが、「妨害」があったかどうかについての
6 ずいぶん長くなってしまいました

-------------------------

 整理すると、以下のようになります。

 笙野さんが「妨害があったのではないか」と考えた(A氏たちがそのように訴えた)原因は、⑴A氏たちが「編集実践2」という授業を〝学生が自由に「蒼生」を作るための時間〟と捉えたことから生じている。それが少なくとも今年の(そして「編集実践2」本来の)授業方針とは異なる以上、ぼくから見ればボタンの掛け違いですが、それは、⑵学科の過去の判断と、ぼくのシラバス編集時のトラブルと校正の不行き届きに加え、⑶A氏たちが授業に抱いた誤解の根本にある渡部直己氏の事件以来の不信感を、ぼくも含めた学科と学部が払拭できなかったことに由来するものと思われます。⑷それが、K先生や笙野さんまで巻き込んでしまった。そのことをとても心苦しく思います。

 常識的に考えれば、「半年もかかって、そんな誤解ひとつ解けないものなのか」と感じるでしょう。ぼくもそう感じます。ぼくたちが説明して、あるいは両者を誰かが仲介し、誤解を解くことはできなかったのか……いまこの瞬間も、そう思います。
 実際のところ、ぼくもK先生も、A氏たちが「妨害された」と感じた(と主張している)ことを、2月8日に笙野さんの原稿で初めて知りました
し、笙野さんの原稿の掲載の有無とは別に、K先生は誤解の解消方法を学科に提案しようとしたけれど、それも断られてしまった。なぜこんなことになっているのか、ぼく自身が疑問ばかりです

 しかし、この半年のぼくたちの学科あるいは学部が、かなり異常で、追い詰められた状況にあったこともまた、事実です。
 2017年4月のハラスメントとその後の処理にかんしては、2018年の6月半ばにネットで話題に火がつきました。大学本部への最初の訴えはそれよりひとつき以上前にあったと聞いています。大学の調査開始は6月末で、なおかつとても慎重に行われました。渡部氏をめぐる調査と処分の発表は7月末、それ以外の調査報告は9月末でした。
 そのかん、大学からの公式情報はほとんどなく、教員にも大学として未確認なことの拡散を控えるようにとの通達がありました。そのため、外部からの一方的な報道と風聞だけが加速してゆきます。学生たちに十分な情報は与えられず、不安に感じた彼らはネットやSNSを検索し、必ずしも正確でない記述と、そこから生まれた感想(主として嫌悪や批判)ばかりを読むことになる。自分たちが教わっていた相手が傷つけたという先輩は、大学の対応も含めて納得がいかないと声を上げ、そのことも自分たちのいる場所やとりまく年長者たちへの不安と不信をいや増すことになる……。
 そんな状況に、在学生のなかでも誰より不安で心細かっただろう、もと渡部ゼミの学生たちが、いちばん浸されたように、ぼくには思えます
(後期から急遽担当した非常勤の先生は、とても学生たちに慕われていると聞いて、ほんとうにほっとしました)。そうして彼らは、ネットで渡部直己氏はもとより「教員A」や「教員B」や「相談室」をふくめた大学が強く批判されている姿ばかりを目にする……後期の始まる前に大学は「二次ハラスメントは認定されていない」という調査結果(のみ)と二名の教員への(「処分」ではなく)訓戒=厳重注意を発表しますが、それだけで安心して授業を受けられるかと言えば、そうではなかったはずです。

 ちょっとだけ大げさな話になりますが、今日の社会構造の特徴は、「個人の主観」と「客観的記述」の見分けがほとんどつかないことです。もちろん、笙野さんならよくご存じのとおり、そもそも言語に客観などなく、絶対の「事実」があるわけでもない。しかし、現代はこれまでの何倍も、流通する言葉の量とその速度が増えました
 その結果、どこかでPさんが冗談で「狼が来るかもしれないよ」とか「狼が来るって噂だよ」と言うと、それを聞いたQさんが「狼が来るんだってさ」と伝聞で広め、さらにそれを聞いたRさんが「狼が来る」と断定的に口にする……その伝言ゲームの先で、たまたま耳に届いたPさんは、自分が流した噂が出発点だということに気づかず「やはりそうだった」「噂は事実だった」と間違って思い込んでしまう。
 俯瞰できればあまりに馬鹿げた、そういう「自家中毒的なループ」が、ネットの世界では日々起きているし、それが現実社会にも大きな影響を与えています。

 20世紀以前であれば、噂の流通は原則として口頭で、あるていど信頼性のある情報は紙や放送媒体で、と棲み分けられていました。だから、受け手も両者を混同せず「ニュースは信じられる」「噂は噂」と、自家中毒的な無限ループは起きづらかった。
 けれども、いまや噂もニュースも同じ画面の中で、同じテキストフォントで表示されます。ニュース自体もときに間違うこともありますから、さらに噂話との差は見えづらくなる。そのうえ、ステマやお金の発生したPR記事、アクセス数稼ぎのためのトバシ記事が混じりこんでくる……掲示板などにコピペされてしまえば、「噂」と「真実」の見かけ上の違いは、ほとんどなくなります(ソースを貼っても、見に行く人は少数ですし、ソースの真実性もわからない)。そんな状況のなかで、ネットの海を彷徨った学生たちの気持ちは察するに余りありますし、誤解や思い込みが生じても当然と言えば当然です
 
 それでも、A氏たちがハラスメントの処理に疑いや疑問を持ったのであれば、学科や学部が一緒になってそのことを考える手伝いができればよかったし、「妨害されている」と思ってしまったら、誤解を解くことが試みられればよかったと思います。それこそが「公平な」教育だとぼくは思う。しかし、そもそもプライバシーに関する難しさがあるうえ、なにを言っても「ハラスメントだ」と言われることに惓んだ学部や学科は、「介入しないことがいちばんの対処である」という判断をしたように見えます。
 ぼくはそれを正解ではなかったと思うけれど、状況を思えば責めることも困難です。しかし「介入しない」ことは、「指導をしない」ことであり、「説明もしない」ことにほかなりません。彼らの不信は解決せず、より深刻な疑心暗鬼となってゆき、唯一指導を試みたK先生(とぼく)への不信として固まっていった……

 しかも、そこまでに至るある時期に「市川にもなにか隠したいことがあるはずだ」と一部の大人が口にしたことを、ぼくは耳にしています。たしかに渡部直己氏のハラスメント事件が報じられた前後、ぼくや「早稲田文学」にかんする無責任な噂話があれこれ流されていることは、聞きたくなくても耳に届いていました。雑誌掲載を口実に学生に夜中に電話をかけまくるとか、テレビで共演しているリポーターたちと不埒な関係があるとか……もっと下品だったり荒唐無稽な話が流されていることもありました。紙の媒体では、ぼくが文壇的政治力(!)を駆使して渡部氏の事件をもみ消した、的な書かれ方をしたゴシップ誌の記事もありました。どれも、根も葉もない噂ですし、馬鹿馬鹿しいと思って放置していましたが、前記したような社会構造を考えれば、それもよくなかったのもしれません。さいきん聞いた話では、ネット媒体で「告発」をしたと書かれた「女性教員」とぼくが関係を持っているという噂も記事のはるか以前からあったそうで、それはそれで違う物語ができてしまう(むろん事実無根です)。

 そんな無責任な噂話の結果、学生の疑心暗鬼が深まって、A氏たちとの誤解がとけなくなっていったなら、悪循環としか言いようがありません。その意味では、無責任な噂とそれを流したひとたちのことを、そして「事実でないことは明らかだから」と鷹揚に放置したつもりだった自分のことを、ほんとうに苦々しく思います。

つづく