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中学受験の愛と狂気ーその愛は誰に向けたものか

長女は小学4年生。中学受験をする予定で大手受験塾SAPIXに通っている。

通塾は小学2年からで既に3年目。


塾の新学期は2月なので小1の冬から通塾していることになる。


長女の教育に対しては就学前の保育園児の時に知育に目覚めて以降、熱心に取り組んできた。


かなり多くの市販教材を使用してお教室ごっこをした。


早期教育には賛否両論あるだろうが、幼少期の習慣はその後の学びを楽にしてくれると個人的には思っている。


むしろ熱心に取り組んでいたのは入塾前までで、SAPIX入塾後は塾のカリキュラムを頼って市販教材を取り入れた学習はかなり少なくなった。学校と塾の勉を中心に過ごし、サポートを入れる程度になり正直私の負担は減った。


4年生になった現在も塾の宿題とテストを大事に過ごしているのみであるがそれだけで十分、というかこれだって本来大変なことだ。


人間は習慣の生き物。習慣をつくることが何より大変だということは誰しもが身をもって体感しているのではないか。


「息を吸うように勉強する」とまではいかないまでも机に向かい新たな知識を吸収することが苦痛ではないということは、決してそれだけで大丈夫とは言えないが少なくともこれからの人生の可能性を広げていってくれるのではないだろうか。

中学受験はその延長上にあってチャレンジしてみたい。

そんな中学受験をテーマにした小説を先日読了した。


主人公は中学受験に取り組む男の子の母親。8歳の頃、軽い気持ちで受けた受験塾主催の小学生向け全国模試で好成績を収め、もともと優秀なのではと思っていた我が子に期待を寄せ、通塾させる。


軽い気持ちだったはずなのに、向かなければやめさせればいいと思っていたはずなのに、成績に一喜一憂して成績が低下すれば怒鳴りつけてしまう。

8歳から受験終了まで、どんどん中学受験の世界にのめり込む父親と母親。

父親の教育虐待にあたるかのような指導、息子の家出、母親の後悔・・4年間のストーリーに何度も涙してしまった。


中学受験は通過点に過ぎない。学ぶ喜び、楽しみ、無限の可能性を与えてあげたい。


親は子を想い、でもその想いのうちの数%には子どものためではない


「親の自己満足のため」


が入っているものなのだと思う。


・偏差値の高い学校に行ったこどもを持つ母親になりたい


・頭が良い子どもを持つ父親でありたい


子どものため、と自分のため、が表裏一体になってしまったとき、そこに狂気が生まれる。


相手が他人であればありえない言動をとってしまう。


自分と子どもが一体化してしまう危険。


ではその危険を感じたらどのように対処したらよいのか。


「嫌われる勇気」で有名なアドラー心理学に


「課題の分離」


という考え方がある。


他人の課題を自分の課題と一緒にしない。


この考え方を親自身が身につける必要があるだろう。

中学受験というのは子どもの戦いであり、親の戦いでもある。


幼いながら自我のある子ども。小学校受験よりも子どもが何より頑張る必要があるが高校・大学受験よりも親のサポートを圧倒的に必要とする受験。


一緒に乗り切る過程を良いものにしたい。この経験が娘にとっても私にとっても宝物のようなものになるかトラウマのようなものになるかは親の自我にかかっているのかもしれない。


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