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アップロード、ヒトミさんの場合(9)

「お客さん、運がええなあ」


 ヒトミさんはとりあえず朝ごはんを作る。といってもパンを焼いて野菜を切って、卵を焼くか茹でるか炒めるかして、コーヒーを淹れるだけ。そして出来ればオレンジジュースがあるといい。朝にオレンジジュースを飲むと、昔、一人で行った海外旅行先での楽しいホテルの朝ごはんのことを思い出すからだ。
 ヒトミさんにとってごはんを作るのは楽しいこと。食べるのも楽しいこと。「楽しいことだけをしてください。楽しいことだけを」。ヒトミさんは諳んじた。

 洗い物を済ませると、ヒトミさんには早々にやることがなくなった。読み終えるのがもったいなかったけれど、殺人事件の続きを読み、だらだらと午前中を過ごした。
 でもどうしても静寂に耐えられなくなったヒトミさんは、庭へ出て曇り空を見上げ、頭痛はしないから雨は降らないだろうと踏んだ。片頭痛持ちのヒトミさんは、頭痛の気配で天気を読む。

 そして唐突に、テレビを買いに行こうと決めた。ネットで中古品店を探し出し、篠田さんにもらった地図で場所を確認し、知らない町でバスを乗り継ぎ大きな中古品店へ行き、十八インチのテレビを六千八百円で買った。
 巨大なビニール袋に入れてもらったテレビは、ぎりぎり片手で持てる大きさではあったが、長時間は持てない重量だったので、休み休み歩き、それを抱えてまたバスを乗り継いで駅まで戻った。
 駅から家へ戻る途中、古い民家の玄関先に、ハンガーラックにたくさんの古着がかけられているのを見つけ、寄り道をした。

オレンジ〇

「何買うて来たん?」
 奥からショートカットの小柄な女性に声を掛けられた。
 年の頃はヒトミさんと同じくらいのとてもお洒落なその人は、ヒトミさんの抱えている大きな荷物に興味津々で、あ、これテレビですと言うと、へ? テレビ? とびっくりし、そんな風にテレビ持ってる人、初めて見たわあと感心している。
 古い民家で古着屋を営んでいるその人は、まあテレビ、そこ置き、ゆっくりしてき、と言って奥の部屋へ引っ込んだ。お茶を淹れてくれている気配がする。
 
 ヒトミさんは玄関の土間にテレビを置いてから、靴を脱ぎ、和室二間に所狭しと並んでいる古着を見るために上がり込んだ。
 素敵な古着はどれも値段が驚くほど安くて、ヒトミさんがいま欲しかったウールのセーターや厚手のコートなどがたくさんあった。薄茶色のセーターを手に取って眺めていると、その人がお茶とカステラを持って戻って来た。

「お客さん、運がええなあ、さっきカステラもろたとこやねん」
 運がいいと言われて嬉しくなったヒトミさんが笑うと、
「ええ笑い顔やなあ」とその人が言う。
 そんなこと長らく言われたことのなかったヒトミさんはまた嬉しくなり、手に持っていたセーターを、これ買いますと言ってしまう。

「おおきにい、千円のとこ、八百円でええわ。私、商売うまいやろ」
 その人は愉快そうに笑う。
 お茶とカステラをいただきながら、その人に聞かれるまま、なぜいま奈良にいてテレビを買いに行ったのかを話す。

「人生いろいろやな」
 ヒトミさんは、その人が、なぜそんな男と結婚したのかと聞かなかったことに感動した。目の前にいる同い年のサヤカさんは大阪から流れ着いてここにいて、ヒトミさんは東京から流れ着いてここにいる。きっと二人で互いの人生のことを話し出すと、三日三晩かかりそうな具合だったけれど、居心地のいい空間で、卓袱台でお茶をすすりながら、そんなこと話さなくてもいいじゃないか、とりあえずお茶とカステラが美味しければと思え、年齢を重ねるということは、いろんなことがあったことを顔つきに現わしてしまうのだろうと、優しそうにも厳しそうにもお茶目にも見えるサヤカさんの顔を眺めながら、ヒトミさんはお代わりのお茶をすすった。
 
 気がつくと一時間以上もそこにいて、外はすっかり暗くなっていた。お互いに電話番号を教え合い、またお茶飲みにき、と新しい友達から言われ、うんと答えて帰りかけ、テレビを忘れたことに気づき、二人で大笑いする。心の底から笑えた自分に、ヒトミさんはホッとした。

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 スペインにいるサキちゃんが、テレビは映らないはずだよ、デジタルに変えてないからと言っていたが、アンテナを差して電源を入れ、画面に指示されるままに設定を整えると、テレビは映った。しかしNHKは映らなくて、民放のチャンネルが三つだけ。奈良にいくつチャンネルがあるのかわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。ただ、箱から笑い声が聞こえてきて、箱の向こうにちゃんと世界があることを認識出来るだけで有り難かった。
 
 テレビが映ったとサキちゃんに報告すると、何でだろう、不思議だとサキちゃんは言い続け、そんなに言われるとヒトミさんも何でだろう、どこかの電波を盗んでいるのだろうかと気になったけれど、電気を盗んでいるわけではないのだからいいかとお互いに納得して、それ以上は追求しなかった。
 でも時々、電波は途切れた。懐かしい砂嵐が画面に現れる。しばらく放っておくと、また画面に極彩色と賑やかな声が現れる。その夜はテレビの気まぐれに付き合って過ごし、テレビに話しかけながら眠りに就いた。少しだけ楽しい夜だった。

 翌日の朝は電波状態が悪く、どのチャンネルも映らなくて、ヒトミさんは憂うつになる。憂うつの原因はテレビではなく朝が来たからだとわかってはいたが、テレビのせいにすることが出来て楽だった。
 何でも人のせいに出来る人は生きることが楽なんだろうなあ、そう出来ない自分は頭が悪いのかもしれないなあと思いながら、今日は何をしようとぼんやりしていると、お隣の篠田さんから電話があって、阿修羅像は見た? と開口一番。まだ見てませんとヒトミさんが答えると、じゃあ行きましょうよと、三十分後に出発することが決定する。

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 昨日買った薄茶色のセーターを着込んで、それしかないハーフのトレンチコートを羽織って玄関から出ると、ねえ、これ、いらへん? と、篠田さんが素敵なウールの茶系のストールを持って現れた。え、いいんですか? とヒトミさんが感激していると、うん、断捨離、と言って篠田さんは、もっとあるのよ、よかったら帰りに上がって見てってねと、もうすでに喜んでストールを首に巻いているヒトミさんを見て、篠田さんも嬉しそうだった。

 観光客で賑わう商店街を抜けると興福寺の境内へ入る。というより、商店街が興福寺の門前町のようだった。京都の町と同じく碁盤の目のように細道がたくさんある奈良の町で、その細道の先に五重の塔が見えて、近鉄奈良駅からすぐの、商店街の中にあるような興福寺が不思議だった。
 商店街も興福寺も人で溢れていて、篠田さんが言うには、つい先月、三百年ぶりに中金堂が再建されたとかで、篠田さんのお目当てはその拝観だった。
 
 七回もの焼失を経て、天平時代の姿を蘇らせたという中金堂の立派な朱色の柱はアフリカ産のケヤキだという。ヒトミさん専属ガイドの篠田さんは知識が豊富で、行列に並んでやっと拝顔出来た、金ピカの釈迦如来坐像の両隣に控える薬王菩薩と薬上菩薩は兄弟らしく、四隅に配置されている四天王像は国宝で、あれは運慶さんが作ったらしいわよと教えてくれた。
 
 それからこれ、と篠田さんが指差す左手の賑やかな柱はヒトミさんも気になっていて、法相柱(ほっそうばしら)と呼ばれるそれは、鮮やかなブルーを背景に、赤や黄色や水色のカラフルな法衣を着た法相宗の祖師が描かれていて、篠田さんいわく、法相宗はインドから来はったからね、色が鮮やかやねとのことで、ヒトミさんもいたく感心した。
 そのあと東金堂を見て、昔は西金堂もあったんよと篠田さんが教えてくれ、それで真ん中が中金堂なんですねと合点してから国宝館へ向かい、また行列に並び、有名な阿修羅像と対面する。
 
 思っていたより小さな阿修羅像を見て、ヒトミさんはモナ・リザを思い出す。ルーブル美術館でも行列に並んで人々の頭越しに見たモナ・リザは、思っていたより小さくてびっくりしたが、この阿修羅像にも、モナ・リザのように人々を惹きつける魅力があるように思われた。三面六臂の戦いの神、修羅場という言葉を生んだ神、その哀し気な、苦悶しているようにも見える表情は、いまのヒトミさんの心に沁みた。
 
 五重の塔を背景に、写真を撮ってあげるという篠田さんにスマホを渡し、使い方を教えてから写真を撮ってもらい、それから嫌がる篠田さんを促して一緒にセルフィ―をして、嫌がりながらも笑ってくれた篠田さんがとても可愛らしくてヒトミさんが笑っていると、ねえ、お昼ごはん付き合ってと篠田さんが言う。行きたいお店があるんだけど、一人ではよう行かんのよと言う。

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「ならまち」と呼ばれる商店街の先にある界隈は、古い町家がカフェになったりお土産物屋になったりしていて良い風情だった。優秀なガイドの篠田さんによると、その昔、蘇我馬子が飛鳥に建てたお寺を、平安遷都の際に新築移築した元興寺というお寺の境内が、現代の「ならまち」なのだそうだ。
 昔といっても本当に大昔の話でびっくりして、蘇我馬子といえば、山岸涼子の漫画でしか知らないヒトミさんであったが、江戸末期に焼失した五重の塔の跡地があると聞くと、そこに佇んで悠久の歴史に思いを馳せてみたい気もしたけれど、いまはお腹が空いていて、篠田さんの行きたいフレンチレストランの方が魅力的だった。
 
 どうやら篠田さんは、ヒトミさんに「ならまち」を見せたかっただけのようで、足早にまた商店街へ戻り、一人では二度と見つけられないような小径を通ってお目当てのレストランへ辿り着いた。



文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん

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