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アップロード、ヒトミさんの場合(7)

遠回りして二月堂へ向かっている


 スーパーで買った稲荷寿司と鯵の南蛮漬けを食べ終えると、ヒトミさんにはすることがなくなった。結局、リモコンの電池を換えてもエアコンはびくともせず、こんなだだっ広い部屋で、頼りになるのは小さなガスファンヒーターとホットカーペットだけ。十一月の奈良は、どれだけ寒くなるのだろう。
 ヒトミさんはお風呂に入って温まり、ホットカーペットの上に敷いた布団の中に潜り込む。寂しさに耐えかねてミコちゃんや従妹にラインをし、その返信の通知音だけが部屋に響く。テレビがないのだ、部屋には。寂しい。
 
 東京の家を出てから、一人の夜を過ごすのは初めてだった。自分以外の気配がない部屋で、あんなに一人になることを望んでいたはずなのに、ヒトミさんは予想外の孤独に打ちのめされていた。二人でいても孤独だったはずなのに、恐ろしいまでの虚無感に襲われているいま、為すことがなかった。そういえばなかったことにした二階の和室に書棚があったことを思い出し、ヒトミさんはそっと二階へ上がってみる。
 
 空き家の主のサキちゃんが、数年前まで子どもたちを連れて年に一度くらい訪れていたという家には、十数年前のベストセラーや子ども向けの本があった。ヒトミさんは比較的新しい本を数冊選んで、階段を下りる。
 
 静寂の中、ミステリーを読み始める。それがあまりに面白くて、永遠に読んでいられそうだったけれど、一気に読んでしまうのがもったいなくて、ヒトミさんは途中で本を閉じる。しかし、その本の世界が、またヒトミさんに豊かな時間をもたらしてくれることがわかっていたから、安心して眠りに落ちることが出来た。
 
 問題は朝だった。すべきこともないのに、規則正しく朝がやってくる。布団の中で、心は重く、まるで夜の闇が塊になって身体の中に入り込んでしまったような、あるいは身体に合わないコートを幾重にも着込まされているような、そんな目には見えない巨大な重みがのしかかって来て、ヒトミさんは布団から出ることが出来なかった。

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 私は、何をしているんだろう。
 ヒトミさんは何度も何度も自問して、このままでは廃人になってしまうのではないかと危惧した。静まり返った知らない部屋で、得も言われぬ恐怖感と不安に苛まれ、布団の中でそのままミイラになってしまう自分の姿を想像した。もしもそれが簡単に成される工程ならば、それでもいいと思ったけれど、胸の内に広がる黒い靄が、正気を失わせてしまうであろう過程が怖かった。
 
 動かなければ、と思った。朝日の射し込むトイレへ行くと、思っている以上に汚れているトイレにびっくりし、カーテンを開けようとして、カーテンの汚れにもおののく。長らく誰も住んでいなかった部屋の分厚い埃が、朝の光によって明らかにされるのを目の当たりにして、まずは掃除だわ、とヒトミさんは呟いた。
 
 昨日買ってきた食パンを焼こうとして、オーブントースターに積もった埃にも気づく。錆びた包丁を丁寧に洗ったけれど、カビだらけのまな板を見て野菜を切ることは諦め、キュウリとトマトを洗っただけでそのままお皿に乗せようとして、そのお皿さえもなんだか信用出来なくて、ヒトミさんはキッチンのシンクで立ったまま朝ごはんを食べた。鍋にたっぷり沸かしておいたお湯を、何度もマグカップに注いでは捨て、やっと紅茶を入れて飲んでいたところに、ピンポンと篠田さんがやって来て、「ねえ、これから散歩へ行くんだけど、一緒にどう?」と誘ってくれた。

「ハイ、行きます!」
 ヒトミさんは喜び勇んで十五分だけ猶予をもらい、急いで歯を磨いて顔を洗って着替える。ヒトミさんの出掛ける準備はいつも十五分で済む。
 それは、気まぐれな夫の突然の外出命令に従ってきた生活習慣がもたらした技だ。急いで右手で歯を磨きながら、左手で着てゆく服を出す。顔を洗って化粧水をつけて、それが肌に馴染む間に着替えを始め、途中で乳液を塗り、それが肌に馴染む間に着替えの続きをし、それから日焼け止めを塗り、着替えを完了させてから口紅を塗る。少しでも遅くなって不機嫌な夫に怒鳴られるくらいなら、端折れるところは端折ってきた。きっと感情だって端折ってきたのだろう。

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「この道が好きなの」
 篠田さんと歩く秋の小径は、遠回りして二月堂へ向かっている。東大寺の裏手に位置しているという大仏池には、抜けるような青空と、ふわりとした羊雲が、それはそれは見事に映っていて、すごいすごいとはしゃぐヒトミさんの足元には色づいた紅葉が、小さな赤い手形を点々と茶色い地面に落としている。

「はい、これが高床式の倉庫」
 篠田さんが愉快そうに指差すのは正倉院。外国の観光客が自撮り棒で世界遺産と共に写真を撮るそばで、ヒトミさんは悠久の歴史に想いを馳せている。

 赤や黄色や茶色の落ち葉が彩る坂道と石の階段を、篠田さんとゆっくり上がってゆく。テレビや雑誌でしか見たことのなかった二月堂は、思っていたより大きくて、独特な形をした吊り灯籠と巨大な丸提灯が、もうそれだけで絵になって、吊り灯籠越しに見る奈良の街並みは、生駒山を背景に、高い建物がないせいか、奈良時代と変わっていないのではないかと錯覚する。

「夕暮れどきが一番きれいなのよ」
 西を向いて建っている二月堂からの眺めは、奈良で一番きれいな景色なのだと篠田さんは言う。
「三月までいるんやったらね、あそこに陣取るのよ」
 篠田さんは、お水取りの際の特等席を教えてくれる。何十年も検討した結果、お水取りの松明が一番きれいに見えて、舞い散る火の粉も若干ふりかかる位置を特定したそうだ。
 
 三月堂、四月堂を経て、東大寺の大仏殿へ向かうと、観光客だらけになってくる。
「あ、鹿!」と写真を撮るヒトミさんを見て、「うん、最初は珍しいからね」と笑う篠田さん。「そのうち飽きるわよ」と言う。
 
 大仏殿の前には、広大な芝生の庭があって、篠田さんによると、時々ここでコンサートが開かれるという。
「サラ・ブライトマンが良かったわあ、ナベサダとかスカパラとかね、剛くんもやったのよ」
 篠田さんの口からスカパラと聞こえると、ヒトミさんは野菜の一種かと思ってしまい、東京スカパラダイスオーケストラですか? と聞き返してしまう。すると篠田さんは当たり前だと言わんばかりに「そうよ」と言い、ヒトミさんがさらにスカパラを聴きに行ったんですかとしつこく聞くと、「うん」と得意気に微笑む。えっと……、剛くんって……、とヒトミさんが言い淀むと、「キンキキッズの剛くんよ、あの子、奈良の子やからね」と篠田さん。
 篠田さんにかかると、スカパラもキンキキッズも子や孫のように聞こえて何かいい。しかし閉ざされた空間ではなく、こんな広々とした立派な大仏殿をバックに野外コンサートがあるのって、なんだかとても正しい音楽の聴き方のような気がするとヒトミさんは思った。
 
 大仏は巨大で、見上げていると首が痛くなるほどで、出来たときは金色に光っていたと聞くと、果たしていまのように拝むだけで心が安らかになっていただろうかと考える。しかしヒトミさんの心にいま安らぎがあるかといえばそうともいえなかったから、大仏の色は関係ないのかもしれないと思った。
 
 大仏殿の一角で、子どもたちのはしゃぐ声がする。そこには、大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴の空いた柱をくぐるための行列が出来ていた。
「くぐってみる? くぐれたら賢くなるんやって」
 篠田さんにそう言われて少し心が動いたが、臀部辺りで引っ掛かってしまった場合の恥ずかしさを思うと、賢くなりたいと切実に思っていたヒトミさんではあったが、やめておきますと答えた。

「あっちの方へ行ったら奈良公園があって、鹿がうじゃうじゃおるけど観光客もうじゃうじゃや」
 篠田さんは、観光客だらけの方面へは行かないというので、ヒトミさんも一緒に家へ戻ることにした。今日は何するのと聞かれたので、掃除しますと答えると、篠田さんは、うん、それがいいと深く頷き、ほなまたねと軽やかに手を振って、きれいな隣家へ消えていった。

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文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん

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