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アップロード、ヒトミさんの場合(11)

とても幸せだった


 賑やかな一団にしばし別れを告げ、ヒトミさんは一度家へ戻ってから、買ってきた食料品を冷蔵庫に仕舞い、急に冷え込んできたのでセーターを着込み、篠田さんからもらったストールを巻く。
 そして、さっき百円ショップで買った質の悪いレギンスをジーンズの下に履くと、安かろう悪かろうの品は通気性がなくて逆に暑いくらいで、ヒトミさんはちょっと笑った。
 これなら冬を凌げるかもしれない。
 しかし、伸縮性もなく動くのが大変だったので、今日は普通のタイツに履き替えてから、冬には厳しいけれどこれしかない薄手のジーンズを履いた。

 いまヒトミさんのワードロープは、ミコちゃんに借りた服を含め小さなキャリーケース一個分と、篠田さんにもらった厚手のコートとストールしかなかったけれど、何とかなるものだなと思い始め、世の中の断捨離ブームの中、誰よりもブームの先端を行っているような気がした。

 それからまたスーパーへ行き、小雨の止んだ夕刻の町を、両手いっぱいに野菜と肉と魚の入った袋を抱えながら歩く。まるでここに住んでいるかのような錯覚を覚える。サヤカさんが、もう奈良に住んだらええんちゃうの? と言っていたが、それも悪くないかもしれないと思えた。

「さっきの子らのうち、バイトのない子らと私らで、だいたい五人分くらいでええんちゃうかな」
 サヤカさんが商売をしている奥で、ヒトミさんは手を洗って野菜を切る。
 この家には大きな土鍋があったので、昆布を敷いて水を入れ、魚を切り、鶏肉で団子を作り、つけだれの準備をする。
 お皿や箸を出して、カセットコンロを用意した辺りで、わいわいと若い子らがやって来て、「わーい、実家みたいだ」とはしゃぐ。若い子らの声は、ヒトミさんを笑顔にする。サヤカさんが店を閉め、寄せ鍋パーティが始まる。

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 まず、煮えにくい根菜類を先に入れ、煮立ったところに魚を入れ、熱くて重い土鍋をえいやっと持ち上げて、ガスコンロから卓上のカセットコンロへ移すと、鍋から立ち昇る湯気に若い人らが歓声を上げる。
 ヒトミさんは、大根と人参をピューラーで薄く削ぎ、くるくるとお皿に花のように盛っていたので、若い子らはそれを写真に撮る。宴が始まる。

 ニンニクとショウガを大量にみじん切りにして、それらをポン酢に入れてユズを絞って、食べる分だけ豚肉を鍋でしゃぶしゃぶしてからつけて食べてねと言うと、ヒトミさんの指示に素直に従って食べた子らが、「うんまーい!」とのけぞる。ヒトミさんは、もみじおろしとあさつきバージョンや、すりたてのゴマを足すゴマだれバージョンも作っていたので、「食べ比べや!」と言ってサヤカさんも忙しく箸を動かす。
 
 若い子らが、友達を呼んでもいいですかと聞くので、まだまだ具材はたっぷりあるからいいんじゃないかなとサヤカさんが言うと、一人増え、二人増え、そのうちサヤカさんの年上のお友達も知らずに偶然やって来て、一度にテーブルを囲めない人数になったので、ひとしきり食べ終えた人らは後方でみかんを食べながら、ワイワイガヤガヤと親戚の集まりのようになってくる。
 
 そしていよいようどんで締める段になると、みんなが箸を持って鍋に群がり、冷凍の五玉入りを買ったのに、あっという間になくなった。
 東京で、置かれた場所で咲けずに枯れそうになっていたヒトミさんは、いま奈良の、置かれた場所で咲けているような気になって、とても幸せだった。
 
 食べ終えると、若い子らが大挙して台所に詰めかけたので、あっという間に後片付けは終了した。みんなお腹いっぱいで動けないと言いながら、働きはよかった。若い子らはそのあと、ごろごろしながら携帯をいじっていて、ヒトミさんは寮母になったような気分になって、そんな仕事があったらいいなあと真剣に考え始めている。
 
 寮暮らしの子が、門限だから帰らなくちゃと言い、その場はお開きとなる。一人五百円の会費を徴収し、「もっと払いたいくらいです、こんな美味しい鍋は初めて食べました」と言ってくれる女の子たちに、ヒトミさんはこちらこそありがとうと、むしろお金を払いたい気がしている。

 初めて歩く夜の奈良の町は真っ暗で、夜風は冷たかったけど、身体の芯からぽかぽかしていて、みんなと別れた道の先で、二つの光る眼に気づいたヒトミさんは、しずしずと歩いてくる神の使いに、こんばんはと挨拶をした。

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 楽しかった分の反動は来る。ヒトミさんはそれから数日間、家に引きこもっていた。正倉院展のチケットを眺めながら、人混みの中に入る勇気が出るまで一人でいようと思った。
 そして夫のことを考え、あの人も悪い人ではないのだと思ったり、組み合せが悪かっただけだと思ったり、言いたいことをちゃんと言えなかったからいけなかったのだと思ったり、いや、でも言いたいことを言っても全然伝わらなかったし、言った言葉の意味を誤解されて怒鳴られたりしていたじゃないかと思ったり、ヒトミさんはまたマイナスのループにはまっていた。

 そんなとき、ヒトミさんが東京でアルバイトをしていたレストランのオーナーの女性から電話があった。
「大丈夫? 家を出たの? 旦那さんから連絡が来たのよ、どこにいるか教えろって」
 ヒトミさんは恐怖を感じた。美味しい家庭料理を作るその人に、ご迷惑をかけて本当にすみませんと謝ると、
「謝らなくていいのよ、どこにいるか知ってても絶対に教えないし、大丈夫よ。ねえ、いまどこにいるの?」

 真剣に心配してくれるその人に、奈良にいますと答えると、「奈良!」と驚いたその人は、救援物資を送るから住所を教えてと言う。恐縮するヒトミさんに、「ほらウチの店閉めたから、食料結構あるのよ、遠慮しないで欲しいものがあったら言って」と、どこまでも優しい。
 
「いま欲しいものは、心の平穏です」
 ヒトミさんがそう言うと、その人は大笑いして、「残念ながらそれは送れないわ。それは自分の心の奥から探すしかないわね」と言った。 
 いつもまるで姉のようにヒトミさんの心配をしてくれるその人にそう言われ、ヒトミさんはハッとした。心の平穏は自分の心の奥底にあるのだろうか。

    日頃から厭世的になりがちだったヒトミさんに、いつも元気なその人は、時々喝を入れてくれた。心の平穏は自分の心の奥にあるのだと教えてくれたその人は、前時代的な旦那さんとの夫婦生活にはとっくに諦念にも似た達観をしていて、自身の両親や、舅や姑も看取り、自分のやりたいことに全力で取り組んできた人だ。いまは孫も生まれ、これからは自分の病気と闘うことになっている。
 そんな素敵な人に、救援物資を送ってもらえる自分は幸せだとヒトミさんは思った。自分こそがその人の役に立たねばならないのにと猛烈に反省し、電話を切ったヒトミさんは、布団の中から這い出て立ち上がった。

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    家を出て、サヤカさんのお店へ行く。
「こないだはありがとうな、美味しかったなあ、疲れたん違うか?」
 サヤカさんも優しい。
「新しく入った大量の冬物があるで」と言うので見せてもらい、ブルーの大きなセーターと裏起毛のジーンズを買う。
「あれやで、いつかここで買った服見て、これは奈良時代のもんや思うで」 
 ヒトミさんは大笑いした。サヤカさんは、ヒトミさんがずっと奈良にいられないことをわかっている。

「調停はいつやった?」
「再来週」
「帰るんか?」
「うん、家には帰れないけど、東京近辺には居ようかと思ってる」
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃなくても進まんと」
「そやな、やっつけてしまわないかんなあ」
「うん」
「はよう終わることを祈っとるわ」
「ありがとう」
 まだ始まってもいない調停が早く終わりますように、ヒトミさんはそれだけを願っている。
 
 ヒトミさんは心の平穏を探すため、とりあえず新薬師寺へ行ってみることにした。そこへ行けば平穏を見つけることが出来るわけではないだろうけれど、ヒトミさんはこの頃、人の言葉を借りてメッセージを受け取っているのではないかと思っていて、伯母が、奈良もええでえと言ったからいま奈良にいて、ヒトミさんに連絡をくれる友人たちが口々に、新薬師寺へ行きたいとか良かったとか言うので、なぜ薬師寺ではなく新薬師寺なんだろうと思いながら、ともかく時間だけはあるヒトミさんであったから、よく晴れた日の朝、冷たい北風に吹かれながら、新薬師寺へ向かうことにした。


文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん

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