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アップロード、ヒトミさんの場合(18)

需要と供給と昼逃げ


 ところでマチコさんは、土曜日に時々デートに出掛けて行く。マチコさんはすごくモテるのだ。デート相手が三人もいて、マチコさんはふくよかで美しい身体に薄手のワンピースをひらりとまとい、その上に軽いコートを羽織っただけで出掛けて行く。

「寒くないの?」
 心配症のヒトミさんは、お母さんになったような心持ちで聞く。
「大丈夫です、私、脂肪を着てるんで」
 マチコさんは朗らかに答える。いまのところ特定の恋人を作る気はないらしく、楽しいデートをしてドキドキする時間が好きなんですとマチコさんは言う。

 たまに会社帰りに合コンに参加しているマチコさんに、私も参加したいなあとヒトミさんが冗談交じりに言うと、「残念ながらダメです、ふくよかな女性が好きな人専門の合コンなんで」とあっさり断られる。世の中にはふくよかな女性が好きな男性が一定数いるそうで、マチコさんは、「需要と供給が一致している無駄のない合コンなんですよ」と微笑む。

 需要と供給! ヒトミさんの目から鱗が落ちる。
 需要と供給! ヒトミさんは、夫の需要に供給された自分を思う。しかし、もしかしたら、ヒトミさんの需要に夫が供給されたのかもしれない。

 この頃は少しずつ、怒りという感情も湧いてきて、それが夫に対するものなのか、自分に対するものなのか、パート先のキレやすいスタッフたちに対するものかわからなかったけれど、理不尽なことに対する怒りは、ヒトミさんに生きる気力をもたらした。
 
 この頃はもう泣かない。自分を憐れむこともしない。怒ってもいいのだと思うことにしたヒトミさんは、夫のテニス仲間の女性に連絡を取った。事情を話すと、ご主人には内緒で会ってくれることになって、東京駅で待ち合わせることになった。

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 久しぶりに会ったユミコさんは、ヒトミさんの話を聞いてびっくりしていた。店での夫の様子にはなんら変わったところはなく、夫は普通に笑っているという。ヒトミさんには容易にその姿が想像できた。

「でも……」とユミコさんは考え込み、「何かわかる気がする」と言った。
「いつも、目が笑ってないもんね」
 ああ、そうかもしれないとヒトミさんは思う。
「それとさ、突然無表情になるよね」
 ユミコさんは鋭い。

 ユミコさんの友人の夫がやはりそんな感じの人で、ある日突然、ユミコさんの友人は逃げ出してしまったのだという。その話を聞いて、ヒトミさんはホッとする。どこにでもある話なのだと思えることで、自分を責めなくて済む。

「誰にも絶対言わないから、うちの夫にも言わないから安心して」
 ユミコさんは、熱海に出掛けるとき、熱海に着いたとき、夜に宴会をしているときに連絡を入れると言ってくれて、「大丈夫?」と聞いた。
「ありがとう、なんとか大丈夫」とヒトミさんは答える。
「人ってさ、誰かを助けたいと思っても、何をすればいいのかわからないから、具体的に出来ることがわかると嬉しい。って、嬉しいっていうのもおかしいよね、ごめん」
 ユミコさんは申し訳なさそうにそういったけれど、ユミコさんの優しさと正直さに、ヒトミさんの心には灯がともった。

「じゃあ、気をつけてね」
 東京駅で、ユミコさんといつもはしないハグをして別れ、ヒトミさんはその帰り道、どうやって荷物を運び出すかを考える。
 万が一、夫が当日熱海に行かないことにした場合、運送屋を当日キャンセルするのは大変だし、運送屋に頼むことで、いま居る場所が判明するのではないかという危惧もある。もしかしたら宅急便で済むのかもしれないけれど、間に業者を入れることが信用出来なくて、結局、軽トラックを借りて、自分で運ぶしかないという結論になった。
 頭の中で、東京の家の自分の荷物の量を計算して、段ボール十箱くらいで何とかなるかもしれないと思った。考えてみると、ヒトミさんの荷物は、日頃から少なかった。

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 当日は朝から、ミコちゃんが仕事を休んで横浜から駆け付けてくれて、夫の家のある隣町の地下鉄の駅で待ち合わせた。駅前で借りた軽トラックに二人で乗り込み、ホームセンターへ寄って段ボールを十箱とガムテープとビニール紐と大きめのビニール袋を一袋買い、コンビニで朝刊を十部買ってから家へ向かう。

 朝早くにユミコさんが連絡をくれて、集合場所のパーキングに夫が車で来ていると確認してくれていたので、まだ突然戻って来るかもしれない不安はあったけれど、体面を大事にする夫だから、自分の居場所であるテニス仲間の人たちに、裏の顔は見せないだろうと推測された。
 
 五年暮らした二LDKのマンションの部屋へ入ると、散らかってはいたけれど、特に何も変わってはいなかった。まずは換気をするために、部屋中の窓を開け放つ。

 キッチンには、空になったコンビニ弁当の容器がゴミ箱に満杯だったけれど、ヒトミさんは全く罪悪感を覚えなかった。夫は、ヒトミさんの薄味の手料理より、コンビニ弁当の方が好きなのだ。床にはビールの空き缶やワインの空き瓶がゴロゴロと転がっていて、そうだった、夫の酒癖の悪さも嫌だったのだと思い出した。
 
 ヒトミさんは、ここで暮らした五年間のことを思い、ちょっと立ち止まってしまったけれど、ミコちゃんが、「さあ、急ぐよ」と、素早く段ボールを組み立て始めるのを見て我に返った。

「何を詰めるか指示して!」
 頼りになるミコちゃんに、クローゼットに掛けたままの夏服やタンスの中の下着類などを全部任せる。大きな旅行用トランク二つに入った冬服はそのままトランクごと持って行くことにして、ヒトミさんはそれらを押入れから取り出し、それから下駄箱の中の靴を乱暴に箱に入れる。
 
 ベランダの物置に入れたまま捨てられないでいた両親の遺品や、ヒトミさんが好きで集めていた結婚前に買った食器やグラス類は、新聞紙で丁寧にくるんで箱に詰め、化粧品類は新聞紙で包んでビニール袋に入れてから箱に放り込んだ。

 独身時代から使っていた、恋しかった茶色いラグを、ミコちゃんと二人でくるくる巻いて紐で結び、ふかふかのクッション類は段ボールにぎゅうぎゅうに押し込む。

「この辺のものは全部ヒトミさんのー?」
 そう叫ぶミコちゃんのところへ行き、ヒトミさんは「うん、これとこれ以外はお願い、あ、ここからここまでの本もお願い」と頼み、ヒトミさんは自分のノートパソコンを電源から引き抜こうとしてふと考える。

「ねえ、ミコちゃん、このパソコンに追跡装置とか入れられてないかなあ」
「そんなこと出来る人だっけ?」
「出来ないと思うけど」
「うーん、じゃあ大丈夫だよ、そこまでしないよ」
 そう言ってミコちゃんが笑うので、ヒトミさんは自分の心に巣くっている恐怖心を追い払う。どの土地の警察でもまず、携帯電話やパソコンに注意をするように言われたのだ。知らないアプリは削除すること、SNSはやめること。恐ろしい時代になったけれど、ヒトミさんの夫は、その辺のことには疎かった。
 
 結局、ヒトミさんの荷物は、段ボール八箱分に収まった。一箱ずつ、マンションのエレベーターに運び込みながら、顔馴染みの住民に会いませんようと祈った。 
 機敏なミコちゃんのおかげで、誰にも見られず作業は終わり、八つの箱と、トランク二つと巻かれたラグが、軽トラックの荷台に収まった。

「さあ、夜逃げならぬ昼逃げだ!」
 そう言って笑うミコちゃんに少し待っていてもらって、ヒトミさんは忘れ物がないか、もう一度部屋に戻る。深呼吸して落ち着いてから、夫と暮らしていた部屋を見回す。さっきユミコさんから、「大丈夫です、熱海に向かっています」と連絡が来たので、安心して部屋を見回す。

 ヒトミさんの荷物が無くなっても、部屋の中は別段変わりはしなかった。ラグのないリビングだけが、少しだけ違う景色になっていたが、寝室もキッチンも洗面所も、むしろすっきり片付いて、暮らしやすそうな部屋になっている。この部屋に自分が居たことが、ヒトミさんには嘘のように思えた。初めから居なかったように、存在したことがなかったように見えた。

 ヒトミさんは、両親の位牌を布でくるんで入れたバッグをぎゅっと握りしめ、もう二度と足を踏み入れることはない部屋のドアをカチリと閉め、鍵を郵便受けに入れた。そしてミコちゃんと出発した。

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 東京を離れてから、ヒトミさんとミコちゃんは小さなレストランでミックスフライ定食を食べ、海辺の家へと向かう。荷物を持って長い階段を上らなくて済むように、裏道の山の方から入り、シェアハウスの裏側に軽トラックを止めて荷物を降ろす。

 二人で五往復もすると、ヒトミさんの荷物は八畳の部屋に収まった。覚悟していたよりもまだ部屋には空間があり、もうこのままずっとここで暮らせそうな気になったのは、ヒトミさんお気に入りの茶色のラグを部屋に敷いたからだ。シェアハウスの最新式の掃除機で、丁寧にラグの汚れを吸い取ると、ラグは輝きを取り戻し、ヒトミさんはやっと、自分の部屋に会えた気がしてホッとした。

「海が見える部屋って素敵過ぎ!」
「いまの私には贅沢過ぎるよね」
「何言ってるの、これまで辛抱したご褒美よ」
「ご褒美なのかあ」
「漁村、って感じがいいねえ」

 ベランダからの眺めを気に入ったミコちゃんは、携帯で何枚も写真を撮っていて、ヒトミさんが一階のキッチンでコーヒーを淹れて戻って来ても、まだ寒いベランダにいた。

「時々遊びに来るね」
「うん、今日は本当にありがとう、すごく助かった」
「うん、実を言うと、かなり楽しかった」
 ミコちゃんが、満面の笑顔をヒトミさんに向けてくれるので、夜逃げならぬ昼逃げにうっかり伴いそうだった悲壮感は吹っ飛び、ヒトミさんも一緒に笑った。

「さて、戻ろうか」
 昼逃げを成し遂げた二人は、軽やかに都内へ戻り、軽トラックを返してから地下鉄の入口へ向かった。別々の電車に乗る前に、ミコちゃんとヒトミさんは固く握手をした。

「またねっ」
 ミコちゃんが、手を振って何度も振り返りながら構内へ消えてゆくのを見送りながら、ヒトミさんは、これからの人生、ミコちゃんに何かあったらすぐに駆け付ける決意を固めた。そして、達成感にも似た、妙にすっきりした心持ちで、すっかり日の暮れていた海辺の町へ帰った。

 仕事から帰って来たマチコさんが、段ボールだらけのヒトミさんの部屋を見て、「あ、ちゃんと部屋になりましたね」と笑う。マチコさんのあとにお風呂に入り、片付けは明日にしよう、今夜はこのまま眠ろうと思っていると、熱海のユミコさんからラインが届く。
「大丈夫です、普通に宴会しています」
 その文面を見て、ヒトミさんは心の底からホッとして、その夜は、夢も見ずにぐっすりと眠った。

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文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん






 

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