見出し画像

アップロード、ヒトミさんの場合(2)

東京駅から新幹線に飛び乗った


    夜になってやって来たミコちゃんの友人は、美しくて聡明な三十代の女性で、半年前に離婚が成立したのだと言った。彼女は長いこと夫のモラハラに耐え、夫の浮気をチャンスと捉え、一年ほどかけて証拠を集め、弁護士に相談し、用意周到に機会を窺っていたのだと教えてくれた。 
    こっそりウィークリーマンションを借りて、少しずつ荷物を移し、夫が出張でいなかった三日間で全ての荷物を移し終え、今後の連絡はここにお願いしますと、弁護士の名刺を添えた手紙を置いて家を出たという。

「大丈夫ですよ、必ずサバイブ出来ますから」
 そう繰り返すミコちゃんの友人は、近頃知り合ったという新しいボーイフレンドのことを嬉しそうに話している。ヒトミさんが、若くて賢い彼女を眩しく見つめていると、彼女が言う。
「横暴な夫を持ってしまう妻には共通点があるんですよね」
「共通点?」
「我慢強いってことと、自己評価が低いってことです。我慢しているうちに自己評価が落ちてしまうのかもしれませんけど」
 ヒトミさんは確かに我慢強い方だった。しかし目の前の彼女は辛抱強く一年もかけて離婚の準備をしたというのに、ヒトミさんは着の身着のまま逃げ出して来ただけだった。
「とにかく警察へは行った方がいいかもです。私の場合と違うんで」
 彼女はそう言った。
 
 三十代の彼女と、四十代のミコちゃんと、五十代のヒトミさんは、鍋をつついてお酒を飲んで、主に一番若い人の新しい恋の話を聞きながら、和やかに夜を終えた。帰り際に彼女は、ヒトミさんの瞳を見つめ、「立派なサバイバーになってください、大丈夫ですから」と、低く落ち着いた声で言った。

    翌朝、仕事に出るミコちゃんを見送ったあと、ヒトミさんは男女共同参画センターというところに電話をした。夫のDVに悩んでいる人が相談するところだとミコちゃんの友人が教えてくれたのだ。肉体的な暴力を受けていなくても、精神的な暴力は受けているのだからとミコちゃんが強く言った。
 
 ヒトミさんはそのときまで、自分が精神的暴力を受けているなんて思っていなかったけれど、センターに電話して、事情を話しているうち、そうか、そうだったのか、私は精神的暴力を受けていたのかと気がついた。夫のことを、個性の強い、一風変わった価値観の人だからと他人には言い続けていたが、センターの女性相談員さんによると、具合が悪くて横になっている妻に向かって、こんなグダグダな女を養っているのかと思うと反吐が出ると言い放つことは、立派な精神的DVなのだそうだ。さらに、生活費をもらったことがないと言うと、それは経済的DVというのだと教えてくれた。
 
 無料弁護士相談というのがあるというので予約をし、警察にも届けるよう助言してもらい、電話を切ってしばらくぼうっとし、それからヒトミさんは出掛けた。靴下を買いたかったので、まずまたユニクロへ寄り、それから商店街の八百屋で果物や野菜を買い、ふらりと駅前の交番へ行ってみた。
 
 駅前の交番にお巡りさんがいるところをあまり見たことはなかったけれど、今日に限って、わらわらと若いお巡りさんたちがいた。ヒトミさんは一瞬怯んだが、そんな怯みを見抜いた一人のお巡りさんが、どうしましたかと聞いてくれたので、えっと、家を出ていて……、と話し始めると、その屈強な、だが優しそうなお巡りさんが、どうぞ座ってくださいと言い、ヒトミさんは、狭い交番の中でたくさんのお巡りさんから次々に質問を受けた。一番冷静な警察官が、いまお時間ありますかと聞くので、ありますと言うと、ヒトミさんは果物や野菜や靴下の入った袋を持ったままパトカーに乗せられて、最寄りの大きな警察署まで運ばれていった。

    立派な警察署の、生活安全課というところに案内され、ヒトミさんは小柄な柔道選手のような女性刑事に引き渡された。そしていまの事情について、交番で話したことと同じ話を繰り返した。事情説明のあと、上申書というものを書かされて、すごく正義感の強そうな女性刑事に、大丈夫ですから、電話には出ないように、メールの内容が過激化してきたらすぐに連絡するようにと念を押され、名刺をもらい、生活安全課を出た。
    パトカーの中で、ヒトミさんの安全な逃亡先をあれこれ考えてくれていたお巡りさんたちは、いつの間にかいなくなっていて、ふと足元を見ると、ヒトミさんが履いていたのはミコちゃんの水色のサンダル。ヒトミさんはサザエさんになった気分で、買い物袋を両手に持って、電車を乗り継いでミコちゃんの家へ帰った。

画像3

 夕食を作り、ミコちゃんの帰りを待つ。
「うわあ、美味しそう!」
 ミコちゃんは、何を作っても、うまいうまいと、ヒトミさんの作るごはんを本当に美味しそうに食べてくれる。それを見てヒトミさんは笑顔になる。
翌日、ヒトミさんの住民票がある管轄の警察署から電話があり、ご主人に話をしましたが、非常に態度がよろしくないので、気をつけてくださいと言われる。

 携帯電話の電源をほぼ切ったまま、ヒトミさんは毎日買い物に行き、そしてゆっくりごはんを作り、ミコちゃんとわいわい食べる。
 
 毎日ごはんを作るのが楽しかった。ヒトミさんは料理をすることが好きだったのに、飲食店をやっている夫はヒトミさんの作る料理に興味がなかったから、いつも家庭の食卓に上がる料理は不憫だった。たまに夫の機嫌が悪いと、ヒトミさんの得意のロールキャベツも根菜の煮物も、芯まで冷え切って食べ残された。どうして結婚してしまったのだろう。それは、これからヒトミさんが何度も聞かれることになる最初の質問になるのだけれど、いまはまだうまく答えを用意することは出来なかった。
 
 ミコちゃんの家に隠れていた間に、弁護士無料相談に二回行き、どうやら離婚調停を申し立てることが、いますべき最善の策なのだと教わった。もし弁護士を雇うなら、ヒトミさんのようにお金がない人のために、法テラスという制度を使えることも教わった。困っている人たちのため、国が援助してくれる制度だそうだ。月々払えるだけの金額を、数年かけて返していけばいいらしい。今後の数年の自分の姿が全く見えないヒトミさんだったが、とりあえずホッとした。

 やがて、ミコちゃんのご両親が九州から遊びに来る日が近づいてきて、ヒトミさんはミコちゃんの家を出ることにした。ミコちゃんは、居てくれていいと何度も言ってくれたけれど、ずっと前から楽しみにしていたであろうご両親のことを思うと、そういうわけにもいかない。ミコちゃんのご両親は娘の家で寛ぎたいだろうし、ヒトミさん自身も多分落ち着かなくなるだろう。

 ヒトミさんは警察で、とりあえず親戚を頼ってはどうかと言われていたので、大阪の伯母に連絡し、しばらく身を寄せさせてもらうことにした。

 西へ下る前に、ミコちゃんが付き添うからと、東京の家に、身の周りのものだけでも取りに行こうということになった。警察には止められていたが、夫の店が忙しい平日のランチどきなら何とかなるだろうと思い、鳥肌の立つような恐怖心と闘いながら、ヒトミさんはミコちゃんと最寄り駅からタクシーに乗った。
 五分で戻りますからと、運転手さんに家の前で待っていてもらい、急いでマンションの部屋の鍵を開けようとしたら、なんと、鍵が、鍵穴に入らない。必死の形相で何度試しても、鍵は、鍵穴に入らない。
 
 家の鍵が替えられていたのだ。ヒトミさんは、夫の仕業にひどく憤慨しているミコちゃんを促して、荷物を詰めてミコちゃんの家へ送るはずだった空の段ボールを二人で荒々しく折りたたみ、タクシーへ戻り、タクシーを降りて駅前のドラッグストアの段ボール置き場に返した。
「もう諦めるわ、荷物」
「私の服を持ってって」
 
 結局、ミコちゃんは冬服を少しヒトミさんに貸してくれ、しばらくは使わないからとキャリーケースまで貸してくれた。お金まで貸してくれようとしたけれど、それだけはいけないと気持ちだけ受け取って、翌日の朝一番に家庭裁判所へ行き、百円ショップで買った印鑑を使って離婚調停を申し立て、東京駅から新幹線に飛び乗った。
 
 新幹線の車窓から、晴れ渡った見事な青空をバックに富士山が現われたとき、その凛とした姿に手を合わせたくなったヒトミさんは、心の中でミコちゃんに手を合わせた。ありがとう。夫と暮らした五年間より、ミコちゃんの家にいた二週間の方が恋しかった。

オレンジ〇


文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?