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アップロード、ヒトミさんの場合(19)

月暦をめくり、春が終わる


 空調の効いた老人ホームには、毎日同じ空気が流れている。入居者さんたちは、外の空気を吸いたいからと、この頃はよく散歩している。空は晴れたり曇ったり、風は冷たかったり生温かったり。もうすぐ春が来る印の強風を、誰もが待ち望んでいるように思われた。

 ヒトミさんにはいま、全ての季節に対応できる服が手元にあったが、奈良で篠田さんにもらった重いウールのコートをいつまでも着ていたい気分でもあった。季節が変わることを、何だか少し恐れていた。やっと自分の荷物を取り戻したが、その安堵感はそんなに長続きはしなかった。

 天候が急変する日はきつかった。朝の雨が昼に上がり、海の色がグレーから青に変わると、多分普通の人々にとっては嬉しい変化が、ヒトミさんにとっては落ち着かない変化になる。

 仕事を終え、バス停二つ分の道を歩いて家に帰る。週に一度は仕事帰りにバスに乗って駅前のスーパーへ行き、買い物をしてまたバスで戻ってくる。淡々と、同じ生活をすることで保たれているバランスが、天気の急変によって壊されるような気がして、ヒトミさんは天候の変化が怖かった。

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 四回目の調停で、調停は不成立となり、離婚裁判へと移行した。ヒトミさんは全てを弁護士さんに任せることにしたので、これからは裁判所へ行かなくてもよくなった。とりあえず、夫と鉢合わせするのではないかという恐怖心からは解放された。

 夫が弁護士を雇えば、早い解決が得られるだろうとのことだったが、ヒトミさんの夫は、弁護士を雇う気など全くなく、ヒトミさんの弁護士さんはため息をついていた。訳のわからないことばかり主張しているらしい夫に手を焼いていて、そうか、理路整然とした意見と闘えないことがむしろこちらの弱みなのかと気づき、計算しているのかわからないけれど、むちゃくちゃな論法で闘ってくると思われる夫にとって、いまやヒトミさん困らせることだけが楽しみになっているのだろうと思われた。

 老人ホームの同僚に、「ねえ、離婚したくないって、すごく愛されているんじゃないの」などと、呑気なことを言う人がいたが、そんな人の人生はシンプルで幸せなのかもしれないとも思えた。

 夫が離婚に応じないのは、ヒトミさんを愛しているからではなく、ヒトミさんが家を出たことへの仕返しであり、ただの嫌がらせでしかないのだとヒトミさんは確信している。もしこれが夫からの離婚請求ならば、すぐに判を押すヒトミさんに夫は満足するだろう。ヒトミさんから離婚を申し立てたという事実に、何事にも勝つことにしか意義を見出さない夫のプライドは傷つき、傷つけられたら必ず仕返しをするようなタイプの人間にとって、裁判を長引かせ、相手を追い込んでいくことは一種の楽しみなのに違いない。一度そのような人間と関わってしまうと、そこから無傷で生還することは難しい。

 弁護士さんが作成してくれる訴状のために、ヒトミさんは、事件の経緯というものを提出しなければならない。これまでも様々な書面を提出したが、それは給与明細や住民票など、ただ事務的に行えるものだったから、特に嫌な思いをすることはなかったけれど、自分の事件の経緯を、日付順に書き出してゆく作業に取り掛かるのは億劫だった。

 しかし、前へ進まなければいけない。ヒトミさんはミコちゃんの家に逃げ出してから、何が起きたかノートに簡単に書いていたので、逃げ出してからの経緯はそれで、逃げる以前の記憶は、小さなスケジュール帳とラインの会話を頼りに、自分に何が起きたのか、パソコンに書き出してみることにした。

 ヒトミさんはえいやっと、腹を括って遡ってみる。思っている以上に記憶は鮮明に蘇ってくる。暴言が書かれたラインの画面を印刷して提出するように言われていたので、携帯の機種を変更する以前の会話は消えてしまっていたけれど、町のカメラ屋でラインの画面を写真に撮ったものを印刷すると五千円ほどかかったので、十分な量だと思われた。

 カメラ屋の店員が、仕上がったプリントを渡してくれるとき、微妙な表情をしていたので、ラインの会話を読まれたのかと気になったけれど、そんなことを気にしている場合ではない。

 ヒトミさんの習慣にはなかったが、日記を書いていればよかったらしい。こんなことを言われた、こんな気持ちだったと書かれた日記は、裁判の証拠になるそうだ。

 出来るだけ客観的に書いてくださいと言われていた事件の経緯を、弁護士さんにメールで送ると、しばらくして送られてきた訴状案には、所々にヒトミさんの心情が付け加えられていて、ヒトミさんは嬉しかった。ヒトミさんが書いた客観的な事実から読み取ってくれたヒトミさんの心情を、弁護士さんが冷静に事実として書いてくれたことに感謝した。

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 近頃の春は、あっという間に終わる。世界の季節のバランスが、少しずつ崩れてきているように感じられる。ヒトミさんの中ではいま、季節はただ移ろうだけの暦の上での出来事で、春の嵐が吹き荒れようと、花々が咲き始めようと、それらは事実として捉えられるのみで、鼻歌すら出ず、喜びすら感じなかった。

 淡々と、月暦をめくり、春が終わる。ヒトミさんの部屋のベランダから、磯遊びをする子どもたちが豆粒のように見え、虫のように点々と動き回るのが見えるようになってきた。夏が来るのだ。

 ホームでの仕事を黙々とこなし、ヒトミさんはなるべく同僚たちと話さずに済むように、休憩時間には外へ出て、防波堤でお弁当を食べている。時々散歩中の入居者さんたちに見つかってしまうが、ヒトミさんは、彼ら彼女らと一緒に海を眺めながら、ぼんやりしている時間が好きだった。
 
 ヒトミさんは裁判には出ないので、弁護士さんから報告を聞くだけだったけれど、裁判官は和解の方向で進めているらしく、あれから三回の裁判を経ても何の進展もない。

 夏になると混むと聞いていたシェアハウスも、近くに新しいお洒落なシェアハウスが出来たため、海の家で働くための若い人たちはそちらへ入ってしまったのか、マチコさんとヒトミさんの家は、まだ二人の家だった。
 
 時々弁護士事務所へ打ち合わせに行くヒトミさんだったが、そこで聞かされる裁判の様子は、裁判官も困り果てているとのことで、頑なに弁護士を雇わない夫のために、ヒトミさんの弁護士さんが、しなくてもいい仕事まで命じられているとのことだった。そんな理不尽な状況に、ヒトミさんはものすごく申し訳ない気持ちになる。

「まあ、腹の立つことも多いですが、いいんですよ、仕事ですから」
 愚痴を言わない弁護士さんの気遣いが嬉しく、ヒトミさんはそれに甘え、渡してくれる答弁書にもさらりと目を通すだけにして深く読み込まず、イライラすることも怒ることもなく、ただもうひたすらに日常をこなしていた。

 梅雨が終わり、入道雲が生き生きとして、蝉たちが仕事を始める。夏休みの子どもたちが海に浮かんでいる。開け放した窓からは、強い磯の香りが漂ってくる。ヒトミさんはいま、故郷にいるような錯覚を覚えている。


 休日に、熱風の隙をついて二階のベランダから吹いてくる涼しい海風が、汗で滲んだ肌をなで、砂浜の歓声が時折聞こえてくる。一階のキッチンには母がいて、リビングには父がいるような気がする。電話がかかってくると、付き合い始めたばかりの、これから結婚することになる最初の夫の声が聞こえるのではないかと期待する。電話口の声が、横浜のミコちゃんや奈良のサヤカさんだったりして、ヒトミさんは現実に戻ってくる。

 八月に、婚姻費用を毎月七万五千円支払うことという決定が下る。夫の言い分が全て却下されている書面の強い口調の文章は、読んでいて心地良く、ヒトミさんはつい何度も読んでしまう。強制執行することも出来るようだったけれど、ヒトミさんはしない。勝つことにしか興味のない人間に、怒りを与えるようなことはしない。

 強烈な日差しの中、ヒトミさんは麦わら帽子を被って仕事に行く。朝の八時に家を出て、日没にはゆっくりお風呂に入っている。読書好きの石田さんが、ねえ、これもらってと、読み終わった本の入った紙袋をヒトミさんに渡してくれる。ヒトミさんが、入居者さんに物をもらってはいけない規則のことを言うと、大丈夫よ、じゃあこれ捨てて、と石田さんは言い直す。捨てたものをこっそり持ち帰るくらいは平気でしょうとウインクをする。ヒトミさんの心には余裕がないのか、まだ本をじっくり読むことは出来なかったが、いつの日かのために、石田さんの本を持ち帰って有り難く押入れに仕舞う。

 夏の海の喧騒が、ヒトミさんの心には届かない。ヒトミさん自身がビーチサンダルを履いていても、ビーチサンダルを履いた若者たちの世界が、どこか遠い星のことのように思え、夜に鳴る花火の音も、連なって通り過ぎるバイクの爆音も、少しだけうるさい虫の音のようにしか聞こえない。肌に滴る湿った汗をじっと見つめ、それが雨のあとに地面から染み出る水のようだと思ったりしている。

 ヒトミさんは機械的に粛々と仕事をこなす。廊下の床を磨き上げ、洗剤の入れ替えを行い、スポンジを乾かし、窓を拭く。シェアハウスのキッチンで、買ってきた詰め替え用のコンソメを容器に移し、白胡麻を空き瓶に詰める。二つある炊飯器の右側のヒトミさん用でお米を炊き、小さな鍋で味噌汁を作り、地元で採れた野菜や魚を食べ、ケーブルテレビで海外のドラマを観る。マチコさんは土曜日にデートに行く。日曜日は二人で夕食を作る。蝉の声が、日常のBGMとなってきて、ヒトミさんはいま、夏の真っ只中にいる。 

オレンジ〇


文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん

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